以前から気になっていた唐古・鍵遺跡。
なぜかというとこの復元楼閣がなんともフォトジェニック(笑)
土器片に描かれた楼閣を忠実に再現したとはいえ、この渦巻きがとっても不思議。
というわけで今回の奈良旅行、行ってきましたよー。
大和八木のゲストハウスから、朝7時半に自転車で出発し、入鹿神社→多神社→鏡作神社→唐古・鍵史跡公園→唐古・鍵考古学ミュージアム→畝傍御陵(こちらは別記事)まで周ってちょうどお昼でした。
- 入鹿神社
- 正連寺大日堂大日如来坐像
- 多神社(多坐彌志理都比古神社・おおにますみしりつひこじんじゃ)
- 鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社・かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)
- 唐古・鍵史跡公園
- 唐古・鍵考古学ミュージアム
- 見どころいっぱい奈良
入鹿神社
大和八木のゲストハウス「ゲストハウスはじまり」さんに2泊した私。
オーナーさんが話上手で楽しく過ごせた2泊でした。
その時に、紅葉のきれいな談山神社を薦められたのですが、私は判官びいきというか「本当に悪者なのか?」という宿題を抱えていて最近は「蘇我氏推し」なんです。
というと、入鹿神社を薦めてくれました。
日本で唯一ここだけが蘇我入鹿を祭神としています。
大和八木駅からもすぐ。同じ境内に正連寺大日堂があります。
天気が悪くて今にも雨が降りそうな空の下、ゲストハウスで借りたレンタサイクルで出発です。
入鹿は、南淵請安の塾で中臣鎌足を除いて入鹿の右に出る者はいないと言われるほどの頭脳明晰だったので学業成就の神様として有名なんだそうです。
この神社は、入鹿が首をはねられたので首から上の病に霊験あらたかな神として信仰があり全国からお詣りが絶えないといただいたリーフレットにありました。
この神社のある小綱町は蘇我氏とゆかりが深い地であり、入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので鶏を飼わなかったとか、明日香村の小原は鎌足に縁があるので、小綱町と小原は縁組をしないなど、リーフレットには入鹿伝説が色々載っていて面白かったです。
正連寺大日堂大日如来坐像
こちらは国指定重要文化財の大日如来坐像です。オーナーさんが「隙間から見られますよ」と教えてくださったのですが、なんと!修復中でした。
多神社(多坐彌志理都比古神社・おおにますみしりつひこじんじゃ)
こちらもオーナーさんに教えてもらった神社。
「古事記」を編纂した太安万侶にゆかりのある神社なので、学問の神様として信仰されています。
ご祭神は神武天皇、神八井耳命(綏靖天皇の異母兄、神武天皇の第2子。多氏の祖。神武没後、長男が次男と三男を殺そうとして逆に3男に返り討ちにあい皇位につき、2男は天皇を補佐する)、神沼河耳命(2代綏靖天皇)、姫御神玉依姫(神武天皇の母)と太安万侶。
神様クラスの中に太安万侶は実在の人物なので異色。
多氏と太安万侶の関係は・・・?
太安万侶は多品治の子と言う説があり、私の好きな「天上の虹」というマンガでは謀反の罪で処刑された大津皇子のご落胤で多品治に育てられ、歴史書の編纂の仕事に携わり、持統天皇に『「多」の字を「大」に変えてもよい、「大」があからさますぎるなら「太」はどうだ』と言われ、名を変えています。
マンガや小説ならこれもアリですね!
亡くなったと思っていたヒーローが実は生きていたというのも好きです。
小雨が降ってきて、ウィンドブレーカーを着て自転車をこぎ続けます。
大和八木から唐古・鍵遺跡までは7kmちょっとのはずですが、寄り道が多くて時間がかかります。
鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社・かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)
唐古遺跡に向かって国道を北上中。「鏡作神社」の看板を見つけ寄ってみることに。
看板にあった由緒より
「崇神天皇のころ、三種の神器の一つとなる八咫鏡を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。(中略)
古代から江戸時代にかけて、このあたりに鏡作師が住み、鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、鏡の神様としては全国で最も由緒の深い神社である。」
ご祭神は、天照国照彦火明命(こちらの神様についてはよく分からず。天火明命アメノホアカリノミコトなら饒速日命の別名のようですが・・・勉強不足です)石凝姥命(イシコリドメノミコト、天照大御神が天岩戸にかくれたときに鏡を作った神様)、天糠戸命(饒速日命に随伴して天下った鏡作りの神様、石凝姥命の父だそうです)
この「伊勢神宮の起源」という文字に心躍る。こんなところに?!すごい!
鏡の神様ということで、美容師や鏡鋳造関係の方の信仰を集めているそうです。
こちらの鏡石は、古代の鏡作りに 使用された道具とか。
唐古・鍵史跡公園
さらにさらに自転車で進みます。
見えてきました!
復元楼閣と唐古池を中心に史跡公園として整備されています。
公園には、資料から当時も植えられたと考えられる木や、復元された建物の柱などがありました。ご近所のお年寄りの良い散歩コースになっていました。
公園から自転車でほんの3,4分。ミュージアムにも行きました。
これがまたお宝満載でした。
唐古・鍵考古学ミュージアム
とても立派で遠くからでもすぐに分かる建物。ミュージアムは入室料200円。小ぶりながらとても充実していました。あの入館料で本物だったのかな?と今となっては写真を撮ってきたけど心配・・・私の中では予習した本に載っていた出土品の本物を見ることができて感動しました!
褐鉄鉱容器と翡翠の勾玉も出土しているというから驚きました。褐鉄鉱の容器には中国大陸の神仙思想に影響された仙薬の「太一兎餘粮」の粘土と勾玉が詰められていたそうです。
紀元前後のヤマトの人が、神仙思想の知識や勾玉の神性を受け入れていたなんて。
というか、大和と大陸が弥生時代からこんなに深く交流していたなんて。
旅行の前に、藤田三郎 著「ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡」という本で予習をしました。
昭和11、12年の唐古池の発掘調査で弥生稲作の実態がわかり、また大量の土器を分類し、近畿地方の土器編年の基礎となったなどということもすごい成果ですよね。
その後の調査で環濠や銅鐸の鋳型外枠が出土したり、衛星集落を持っていたりと高度な技術を持っていたことも分かっています。
弥生時代の土器で絵が描かれている(へらで線描きされている)ものが多く見つかっているというのもとても珍しいそうです。
唐古鍵遺跡から約350点、衛星集落である清水風遺跡から約50点という絵画土器の出土数は、全国の絵画土器出土数の半数近い数だそうで、この遺跡の特異性を表しています。
繁栄していた唐古鍵ムラは、弥生時代中期末になるとどうやら洪水などで環濠が埋没し、衛星集落ということでなく、ムラが解体するかのように小規模集落に分かれていき、同時期、東の纏向集落が隆盛を向かえています。
唐古鍵から纏向へ移行したのか、纏向に解体させられたのか今後の調査で明らかになっていくようです。
本当に充実していました!
見どころいっぱい奈良
邪馬台国畿内説の本拠地、纏向遺跡には以前行ったことがあります。
xiaorentraveldiary.hatenablog.com
纏向遺跡はとっても有名ですが、唐古鍵遺跡も弥生時代の集落として重要な遺跡ということがわかりました。
もっと有名になってもいいのに。
はっ、もしや今の教科書には載っている?昭和の子供の私が知らないだけ?
奈良と言うと、どうしても法隆寺、東大寺、薬師寺とか有名な寺院が多いし、明日香村とかならまちとか雰囲気のいいところも多いですが、
今回の奈良旅行も充実していて楽しかったです。
GOTOキャンペーン中にもかかわらず「疎」だったのもありがたかったです。
まだまだ勉強不足だなあ。