宮跡巡り旅⑤平城宮
これまで電車の中から復元された朱雀門を見たことはあっても平城宮に行ったことはなかった。
と書いたところで古い記憶をたどってみたが、一番初めの朱雀門の復元工事さえ平成五年なので、やはり復元、整備された平城宮史跡公園を訪れたのは初めてだと思います。
大和西大寺駅から歩いて15分ほどでしょうか、まず資料館から見学開始です。
第一次大極殿
手前の回廊に西楼、南門、東楼。
北側を一段高くして大極殿と後殿を配置、段の南側は儀式のときに旗や幟を立て、貴族たちが整列したところです。
広さは南北320m、東西180m広いですね。
第一次大極殿は恭仁京遷都の時に回廊と共に移築されたそうです。その後、山城国分寺に施入されたそうです。
奈良時代後半の第二次大極殿は、内裏の南側に作られ、この第一次大極殿があった場所は称徳天皇の西宮として利用されたとのことです。
奈良時代に遷都はあっても、平城宮の中に大極殿が第一次、第二次とあるのはなぜだろうと思っていた謎が解けてスッキリ。
こういうの好きです。
「あおによし、それもよし」という奈良時代にタイムスリップしたミニマリストのギャグマンガを読んでいたので、この部屋では調度品が多くて山上は落ち付かないといいそう、などと思う。
復元された大極殿に入ります。
二階に登って中に入ると高御座が見えました。
この時思ったのは「長岡宮はアプリだったけど、平城京はお金かけてるなあ」でした。
今上陛下の即位の際の高御座は混雑していて見ることができなかったのでこちらで妄想することにしました。
鴟尾は初唐様式の影響の強い形に、中央の飾りは法隆寺の宝珠を参考に復原したそうです。
遺構展示館へ移動中に御陵を見つけたのでお参り。
平城宮のすぐそばに平城天皇陵ってあるんだなあと感慨深いです。
考えたら京都に桓武天皇陵ってあるし・・・
遺構展示館は入場が16時までで5分遅れたばかりに入場できず。
朱雀門まで歩きます。
なかなか朱雀門に着かなくて大きいなあと大きさを実感しました。
南門から朱雀門までの間は朝堂院(官庁)があったとされる場所。こちらも広いです。
天気が悪く夕方でけっこう切ない感じでした。
晴れていたら空を背景に建て物が映えるのに。
朱雀門の南側は広場になっていて、展示館がいくつかあります。
ここは修学旅行生が来るところらしくて(バスの駐車場もあった)、一気に人が増えました。
平城宮いざない館だけ見て、他は時間がありませんでした。
平城宮って、元明天皇ファミリー(持統・藤原氏ライン)の都だなあと展示を見て思う。
こんな小さな船で日本海を渡るのって怖い。
それでも外交や文化伝授のために海を渡るのだから半端な覚悟では無理ですね。
今回は、午後3時くらいから来て時間があまりなかったので、歩いて広さを体感した程度の見学になってしまいました。
広い!
来月は京都御所を見学する予定なので、そちらも広さを体感したいと思います。
宮跡巡り旅は今回はこれにて終了。
宮跡巡り旅④桜井市磐余宮跡
山の辺の道と桜井市には古代日本の宮があったとされる場所がいくつかあります。
朝堂院や大極殿などが整うのは7世紀以後のことなので、それ以前は宮殿というよりは大王の屋敷なのではないかと思います。
そう思うのは藤原京以降は条坊制の都市となり広い平野にありますが、古代の宮伝承地が山の奥であったり、川沿いであったりと大きな宮殿が建てられるような位置にないためです。
そういうことも実地検分で分かりました。妄想する材料も必要です。
この日は桜井駅でレンタサイクル900円/日を借り、9:00~17:00過ぎまで自転車と徒歩で大移動しました。
- 第29代欽明天皇・磯城嶋金刺宮
- 第21代雄略天皇・第25代武烈天皇
- 忍坂街道・舒明天皇陵・鏡女王墓・大伴皇女墓
- 第32代崇峻天皇・倉梯柴垣宮
- 崇峻天皇陵
- 第17代履中天皇・磐余稚桜宮・稚桜神社
- 第31代用明天皇・磐余池辺雙槻宮
- 第22代清寧天皇・磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)・御厨子神社
- 第30代敏達天皇・訳語田幸玉宮・春日神社
- 桜井の地名の元となった桜の井
- まとめ
第29代欽明天皇・磯城嶋金刺宮
桜井駅から初瀬川を目指します。川沿いの磯城嶋公園に欽明天皇の宮跡があります。
仏教公伝の地の碑は別の場所にもあります。
欽明天皇は仏教を百済より正式に受け入れた天皇。敏達、用明、崇峻、推古天皇の父。
すぐそばに海柘榴(つば)市もあり、当時は国際色豊かな地域だったとのこと。
次は自転車で伊勢街道(国道165号線)を長谷寺方面へ向かいます。
第21代雄略天皇・第25代武烈天皇
xiaorentraveldiary.hatenablog.com
忍坂街道・舒明天皇陵・鏡女王墓・大伴皇女墓
雄略天皇の二つの宮跡と、武烈天皇の宮跡、ダンノダイラで午前中はつぶれてしまいました。
次は忍坂街道へ。
ご祭神:稚日女尊(伊弉諾命・伊弉冉尊の御子で天照大神の妹神。またの名を丹生比賣神)、衣通姫尊(第19代允恭天皇の皇女。美しさが衣を通してしまうほどの美女)
衣通姫尊の「産湯の井戸」の伝承地とされる井戸の石積跡が見つかり復元したそうです。
舒明天皇は天智天皇・天武天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)の父で、妻は斉明天皇。舒明ファミリーすごいですね。
文久年間の記録によると石棺が2基あり、舒明天皇と母親の田村皇女と言われています。夫は母親と、妻(斉明天皇)は孫(建皇子)と合葬されるというのはいったいいかがなものか・・・
「秋山の木下隠り逝く水の吾こそ益さめ(まさめ)御念(みおも)ひよりは」という歌は中大兄皇子(天智天皇)に贈った歌です。
この歌は中大兄皇子の「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」に答えた歌です。
大伴皇女は欽明天皇と堅塩姫(蘇我稲目の娘)の皇女です。兄弟に推古天皇や用明天皇がいます。あまり存じ上げないので迷いましたが、ここまで来たからにはお参りしようとまた登り坂。
舒明天皇・鏡女王と大伴皇女は特に関連もないのですが、同じ斜面を登って行きます。この時は秋だったので虫もいないし、草丈も低かったですが、夏は虫除けスプレー必須な感じです。
第32代崇峻天皇・倉梯柴垣宮
この碑は桜井市総合福祉センターの敷地内にあります。すごく探しましたよ。崇峻天皇の時に蘇我氏と物部氏の対立が激化して丁未の乱がおき、物部氏が没落します。その後権力を独占した蘇我氏に崇峻天皇は暗殺されることになります。
崇峻天皇陵
臣下に暗殺された天皇と言うのはこの方くらいのような・・・(幕末の孝明天皇も薩摩に暗殺された噂ありですが)
第17代履中天皇・磐余稚桜宮・稚桜神社
磐余の池のそばの小高い丘の上にある神社です。わかさくら神社というのが桜井市のあちこちにあるので混乱しますが、ここ「稚桜神社」も履中天皇の磐余稚桜宮の跡と思われます。(桜井駅のそばの「若桜神社」も稚桜宮伝承地とされています)
第31代用明天皇・磐余池辺雙槻宮
継体天皇の磐余玉穂宮は磐余の池のあたりにあったのだろうと過去記事で紹介しました。
用明天皇(聖徳太子のお父さん)の磐余池辺雙槻宮は、おそらくこの磐余池の近辺なのでは?と。
もう一か所、石寸山口神社も候補地とされています。
この石寸山口神社は雙槻神社ともいわれていたことがあるためですが、磐余池辺雙槻宮(用明天皇)は磐余池辺とあるので、低地の磐余の池のそばだと個人的には思います。
第22代清寧天皇・磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)・御厨子神社
第30代敏達天皇・訳語田幸玉宮・春日神社
磐余の池付近から北上、近鉄、JRの線路を超えていきます。
ここから桜井駅までは自転車で10分とかかりません。
自転車を早めに返してと朝言われていたので16時半頃に返却しました。
その後は、徒歩で桜井駅から近い所にあると思われる「桜の井戸」を探しに行きました。
桜井の地名の元となった桜の井
まとめ
今回は桜井市にある宮跡を周ってみました。
山の辺の道にある纏向日代宮(第12代景行天皇)・纏向珠城宮(第11代垂仁天皇)、磯城瑞籬宮(第10代崇神天皇)と、
天理市にある石上広高宮(第24代仁賢天皇)の宮跡は次回にしました。
山の辺の道、履中、雄略、武烈と初期の天皇の宮はどちらかというと山の麓というか山の近くにありますね。
それが、だんだんと低い広い平野に出てきたように思います。
藤原京、平城京、長岡京、平安京など有名どころ以前の宮の場所を周るというのも、どうしてここに宮を?と妄想するのは楽しかったです。
継体天皇の4つの宮も探し回って実際はどんなところにあったのかを考察することは面白かったです。
本当に疲れましたが、マニアックなテーマで観光するのもいいなと。
ただ、ついてきてくれる人はいないので一人で探求することになりますが。
宮跡巡り旅③雄略天皇と武烈天皇の宮と出雲族の聖域ダンノダイラ
宮跡巡り旅、いよいよメインの桜井市です。
山の辺の道は夫さんがいつか一緒に行くというので取っておいて、今回は伊勢街道沿いの雄略天皇と武烈天皇の宮跡を訪ねます。
あわせて、出雲族の聖域の「ダンノダイラ」にも行きました。
雄略天皇の泊瀬朝倉宮①白山神社
桜井駅でレンタサイクルを借り、初瀬川沿いの伊勢街道を長谷寺方面に進みます。
国道165号線は交通量が多く、車道を自転車で走るのは怖いです。そして、歩道は一部が狭く舗装がガタガタのところがあるので要注意です。
朝倉小学校を過ぎて白山神社に着きました。
小ぶりな白山神社、境内の写真を撮るのを忘れました。
白山神社の近辺は雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったと伝えられています。
そのため、白山神社内に「万葉集発耀讃仰碑」と、雄略天皇の歌碑があります。
桜井市内には、万葉集の歌碑があちこちにあります。川端康成や湯川秀樹など有名人が揮毫しています。観光案内図に場所が載っているので探してみるのも楽しいです。
「こもよ みこもち ふくしもよ」で始まる雄略天皇のナンパの歌。「良い籠を持って菜を積んでいるお嬢さん、名前を教えて」と歌っています。
当時は名前を教えるということは、お誘いに応えてもいいわということなんですね。
雄略天皇の宮跡の候補地はもう一つあり、それはこの後で行きました。
武烈天皇の泊瀬列城宮・十二柱神社
「日本書紀」では悪逆非道に描かれている武烈天皇(「古事記」には悪行の記述無し)、
その悪行のため応神王朝が断絶し、越から継体天皇が招かれたことになっています。
悪行は捏造だとか、そもそも実在しない天皇だとか言われています。
しかし、伝承地があるからには行ってみなくては。
武烈天皇の泊瀬列城宮伝承地は伊勢街道の十二柱神社内にあります。
野見宿祢信仰
こちらの五輪塔は元は出雲の太田というところにあり、江戸時代には相撲の巡業の際には必ずこの野見宿祢のお墓に参拝したそうです。
明治16年頃に十二柱神社に移されたのですが、その時この五輪塔があった塚からは土器・埴輪・直刀・子持ち勾玉などが出土しました。
野見宿祢という人は、相撲の発祥の人(当麻のスケハヤと言う人と闘い勝った)であり、埴輪を作り殉死をやめるよう進言した人で、今では相撲の神様、知徳の神様となっています。
出雲国の野見宿祢ではなく、大和国の出雲の出身だと考えられています。
そうなのです、桜井市には出雲村があるのです。
これが今回こちらに来たかった理由の一つです。
三輪山の麓、大神神社は大物主神(大国主命の別名。出雲の神様)を祀っています。
出雲村は出雲の人々が住んでいたと言うことでしょうか。
さて、その出雲の人の聖域が巻向山の山の中にあるというので登ってみました。
出雲族の聖域ダンノダイラ
最初の地図、北側の山の中にGPSの移動ルートが現れていますが、そのルートがダンノダイラへの道です。
Googleマップの口コミが良さそうだったので軽い気持ちで登り始めましたが、普通に山道でかーなーり大変でした。人が全く通らないので一人で登るのは危険かも。
野見宿祢顕彰会の方の案内がこまめにあるので迷うことはありませんが、途中で何度も引き返そうか迷いました。
野見宿祢顕彰会の「ダンノダイラ」への案内板がちゃんとあるので迷いません。
住宅街の中ですら急な坂道が続き、住宅街を抜けると少し開けたところになります。
よく見ると畑には害獣予防に柵があり、「感電注意」とあります。
少し登ると害獣予防の柵があり、この中の林道を登ることになります。
右下の赤丸が現在地、上の赤丸の部分を目指します。等高線が細かいですねー。
この時点でどうしようか迷ったけれど、登ることにしました。
初めは舗装された林道です。だけど、ものすごく急です。四駆でも上れるのかしら?
山の上にはアンテナ基地もあるようです。
あとどれくらいなんだろう?と迷いながら登り続け約40分くらいで着きました。
この周辺、700mくらいの山の中に古代は出雲のムラがあったというのだから驚きです。
巨石があり、十二柱神社の御神体だったとか。
大きな石にしめ縄がかかっているのが分かります。崖になっていて近くまで行けず、離れたところから拝みます。
なんだか大きな石ってそれだけで神秘的な感じです。
これほどの山の中に昔はムラがあったというのが驚きです。
出雲はヤマトに国を譲りましたが、ヤマトに出雲の地名が今も残ることが不思議でした。
登山道ではないので、ほとんど誰も来ません。
一瞬鳥の声が止んだと思ったら、鹿が二頭、すぐ足元を走りすぎて仰腰抜かすかと思うほど仰天しました。
ネタになるかもなんて気持ちで登ってきてちょっと向こう見ずだったかもと反省しました。
鹿ならいいけど、猪にあったらどうしようと帰りはかなり急いでおりました。
それでも、下りで20分以上、十二柱神社に戻るのに上での散策も含めて1時間半くらいかかりました。
雄略天皇の泊瀬朝倉宮②十二神社
雄略天皇の朝倉宮跡とされる場所はもう一つあり、十二柱神社から道を渡って山の上、岩坂の集落にあります。
電動自転車ではなかったので、ここまでずっと自転車を押して登ったので大変でした。神社の周りのお家の番犬たちはみないい仕事をするので、ずっと吠えられ続けていました。
こちらはけっこう山の中なので、本当にここに宮があったのかしらと。
当時の宮はまだ藤原京や平城京と比べると、大極殿や朝堂院などの施設があったかどうかも分からないため、小規模であることは間違いないのですが、臣下たちもここに登ってくるのって大変だったと思います。
棚田があって、きれいな景色なんですけどね。
これだけでほぼ午前中を費やしてしまいました。
午後も宮跡巡りは続きます。
宮跡巡り旅②継体天皇の4つの宮跡を探して
宮跡巡り旅の目的の一つに継体天皇の4つの宮の場所を訪れるがありました。
継体天皇についての個人的興味
数年前に福井に旅行した時に継体天皇の像を見て「もう少しなんとかならなかったのかしら」と思って以来気になっている天皇。
継体天皇以後はほぼ現在の皇室に繋がるといって過言ではない。
でも、武烈天皇によって応神王統が途絶え、応神天皇五世孫が福井から招かれて即位するなんて日本書紀の記述をそのまま信じていいものかしら。万世一系というけれどちょっと微妙な感じです。
個人的には、越の大豪族がヤマトの豪族(大伴や物部)と組んでヤマトを乗っ取ったのではと思っています。
ヤマトの磐余玉穂宮が即位後20年経ってからなので、通説では反対勢力がヤマトにいれなかったためと言われていますが、即位した当初の樟葉宮は交通の要衝でもあるので「あえてヤマトに入らず交易・防御に適した樟葉に拠点を設けた」説を見つけました。
どうなのかしら。これは一つどんなところか樟葉宮の場所を行ってみなくては・・・
最初の宮樟葉宮(507-512)
507年河内の樟葉で即位しました。
現在の場所は、枚方市樟葉丘にある交野天神社の中にあります。
こちらの交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)は、桓武天皇が787年に長岡京の南の地を選んで郊祀壇を設けて父光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀ったのが起源とされています。中国の皇帝が冬至の日に天壇で天帝を祀る例にならっとされています。
天神さまというと菅原道真かと思っていましたが違うのですね。
拝殿の右に森に入るような道があり、道なりに進むと貴船神社の本殿があります。
その本殿のあたりが樟葉宮伝承地とされています。
村の産土神で穂掛神社とも呼ばれた貴船神社は、現在の交野天神社社殿のあたりにあったものを樟葉宮跡とされた丘に移したといわれてるようです(教育委員会の看板から)
**感想**
ここに来る前に石清水八幡宮を参拝してきたのですが、京都からくると桂川、宇治川、淀川と大きな川があって水利の便は良さそう。(北側は防御にも良さそう)
石清水八幡宮は普通に山で、ここに見張り台でも作っておけば攻められても早期発見ができそうです。
樟葉丘自体は山ではないですが、丘陵地帯にあるように思いました。
お隣の八幡市のほうは水田もあるので、低いのかなと。
もともと即位の時に河内馬飼首荒籠が密使として活躍したというから、北河内の馬飼部と親しい関係にあって、馬と武器を手に入れるためにはこの場所が重要と思っていたように思います。
第二の都・筒城宮(511-518)
樟葉宮はなかなかいい場所にあったと素人ながら思いましたが、わずか5年で筒城宮に遷宮します。
筒城宮は現在の京田辺市。筒城宮伝承地の碑は同志社大学内にあると聞いて行ってきました。
同志社前駅からひたすら長い登坂を進み、キャンパスの入口で挨拶をします。(先達のブログなどを見ると入口の守衛さんに挨拶をすれば入場可能ということだったので)
すると、コロナ禍がやっと落ち着いたばかりで部外者は入校不可とのことでした。
ショック・・・千葉県からわざわざ来たのに・・・
駅からの途中に案内図があったので、せめて伝承地の碑があることだけは確認して帰りました。
実際の所、必ずしもそこというわけではないようですが京田辺市の郷土史会が筒城宮顕揚会を結成して、当時の明治神宮の宮司さんに「筒城宮址」碑を揮毫してもらったそうです。あわせて会長の筒城宮を称える歌碑も残っているそうです(先達のブログにあった京田辺市の教育委員会の看板より抜粋)。
学研都市線という極めて面倒くさい線で行ったのに(樟葉宮からは樟葉駅前からバスで松井山手駅まで行き、そこから学研都市線に乗りました)・・・・
マスクもしてたし、私は小さいので案外紛れ込めたかもしれないのに・・・・
と非常に残念なことに。
**感想**
この地にあったのか微妙なところではありますが、案内図の地名に多々羅とあるのを見ると、製鉄業が行われていたと見受けられます。
ということは、馬と鉄があれば最強部隊が作れるのでは?と思ったりして。
鉄製農具があれば生産量も増えそうだし。
そして、少しだけヤマトに近付きましたね。
第三の都・弟国宮(518-526)
現在の長岡京市にある乙訓寺の付近だと言われています。
弟国宮伝承地の碑はありません。先達も乙訓寺の写真を載せているばかりです。
推古天皇の勅願により聖徳太子が開き、桓武天皇の弟の早良親王が幽閉されたり、空海が別当となるなど、長きにわたり繁栄していた大寺のようです。
こちらのご本尊は秘仏で見ることはできないのですが由来がすごいです。
弘法大師が八幡大神を彫っていると八幡大神が現れて「手伝ってやる」と言って、大師が首から上を大神が首から下を別々に彫り、出来上がって組み合わせたら見事に一つの像になったというのです。寄木造りとはまた違うのかしら?
**感想**
長岡京のときに思いましたが、この場所は川もあり水運に便利です。平野も広いし。
ヤマトがそれまでの王権の中心地でしたが、継体天皇はそれに拘らずこのまま難波津に出やすい弟国がいいと思っていたのかもしれません。
最後の宮・磐余玉穂宮(526-531)
即位後20年たって桜井市の磐余の池のほとりに宮を移しました。
通説では20年たってやっとヤマト入りできたということになっていますが、そもそも即位したときに57歳、生い先短いのに無理にヤマトに宮を作ろうとしたかしら。どうも継体天皇のイメージって名より実を取るタイプ、歴代の王権の宮があったヤマトに宮を作るよりも交易や製鉄業・馬飼に便利なほうが良くてあえての宮作りだったように思います。
でも、それなら最後までヤマトの外にいればいいのに、英雄タイプの継体天皇と違って後継ぎの息子たちはヤマト以外にいたら、ヤマトの豪族たちに見向きもされないんじゃないかって心配になって武力と経済力をバックにヤマトに乗り込んだのではなんて。
息子たちのためにヤマトに宮を移したと個人的な妄想です。
磐余の池もはっきりと所在地が分かっていません。それが分かると磐余の池のほとりにあったと考えられる玉穂宮の位置も決まると思うのですが。
桜井市の観光案内図に宮の伝承地が載っていましたが玉穂宮は不明でした。
ですが、玉穂宮以外の「磐余」とつく宮は一応探してみました。
第17代履中天皇の磐余稚桜宮と第22代清寧天皇の磐余甕栗宮は看板を桜井市が伝承地を設定しています。
桜井市の宮跡巡りは一日かけてレンタサイクルで40km以上移動しながら探したのでまた別記事であげますね。
**感想**
交易や産業の基盤ができて、もう攻撃される心配がなかったなら、歴代王権のあったヤマト盆地に移ったのも分かるような気がします。広々としたのどかなところでした。
が、結構新しく宅地が造成されているところもあり、吉備池と思われるところも吉備の春日神社からなら行けますが、南側の方からは新しい住宅が立ち並んでいて行けません。Googleマップで色々探していたのに迷ってしまったこともあり、更新が追い付いていないようです。
4つの宮跡と思われる場所を訪ねて、どこもそれなりに広く川があるなど立地の利点が感じられました。(あくまでも素人の考えですが)
我が家も昨年家を建てるときに立地ってすごく重要でしたもん。
関東に住んでいて、地名を聞いてもどんなところかよく分かっていなかったのでやっぱり実地検分って大事だなあと思いました。
宮跡探して何になると言われてしまえばそれまでですが、有名な社寺の見学だけでなくこうしたテーマで旅行するのも楽しかったです。
宮跡巡り旅①長岡京
古来日本の都となったところは数多いけれど、案外踏破できるのではないかと。
現在の皇居のある東京出身だし、京都には何度も旅行しているし、飛鳥板葺宮・浄御原宮・難波京等々も行ったことはあります。
伝承地として分かっているところで行けるところを巡ってみました。
こんなマニアな思いつきにつき合わせるのは申し訳ないので今回の旅行も一人旅です。
体力のありったけを投入して観光してきましたよ。
ざっくり長岡京の説明
784年に桓武天皇によって、平城京から長岡の地に都が移されました。
長岡京は長岡市と現在の向日市、大山崎街の一部にまたがり、大きさは東西4.3km、南北5.3kmで推定5万人が住んでいたと考えられます。
遷都の理由としてあげられるのは、「仏教勢力が強い平城京から離れるため」「天武系から天智系へ王統が変わったことを示すため」「平城京よりも水運が良い場所のため」「母親が渡来系氏族のため渡来氏族の多い山城への移動を希望したため」などがあります。
しかし、側近藤原種継の暗殺がおこり、関わったとされる弟の早良親王を流罪にしたことから、早良親王は抗議のため絶食して憤死します。
その後、桓武天皇の后や皇太子、母親などが急死したり、疫病が流行り、早良親王の祟りを恐れ、その後水害も起きたため、長岡京はわずか10年で放棄され、平安京に都は移りました。
わずか10年で放棄された長岡京は、未完成の都とも、存在自体が謎の「幻の都」とも言われていましたが、戦後地元の歴史地理学者中山修一先生が発掘調査を始め、朝堂院南門を発見し、その後発掘調査が進むにつれてかなり完成していたことも分かりました。
現在は、出土品は向日市資料館に展示され、長岡宮(現在の皇居にあたる内裏や国会にあたる大極殿など)を史跡公園として整備しています。
長岡宮自体も東西1.1km、南北1.6kmにわたるほど大きなものでした。
今回の行程
今回は、JR長岡京駅から長岡天満宮を参拝し、継体天皇の宮跡の乙訓を探してから、長岡京史跡を訪ねました。
そして、今回導入したアプリ「ar長岡」が面白かったのであわせてご紹介しますね。
最後、向日神社の後でGPSが乱れたのかゴールまで一直線になっていますが、途中迷いながらもこんなルートで見学しました。
大極殿公園
初めに訪れたのが、大極殿があった場所です。
道路で南北に分かれていて、南に大極殿(天皇が政治を行う場所)、北側に小安殿(天皇が大極殿に出向く控えの場)があります。
右奥に見える赤い棒は「宝幢」といって、元旦のお祝いの儀式のときに旗を建てるための台座です。
看板や説明版や碑などたくさんありました。
大極殿公園は、上の四角の中の青い建物です。
礎石の跡を見ると大きな建物だったとわかります。
ここで、アプリを起動します。「ar長岡」
このアプリは無料でダウンロードできて、史跡の場所で起動するとVRやARで見たり、説明を読んだり、写真を撮ったりゲームもできるというものです。
実際の場所と合成もできます。
ただ、やり方が悪いのか縮尺が合わなくて、建物がすごく大きくなってしまったり・・・
そして、ここには人物も現れます。
これもやり方が悪いのか高御座のところではなく、なぜか庭のところをぶんぶん動いていました。天皇皇后両陛下の行幸記念碑と一緒なら子孫ということでいいかもと思い撮影。
左上から藤原種継、坂上田村麻呂、桓武天皇、百済王明信です。大極殿公園では四人が合成されたバージョンが見られましたが、他の場所では別々になっています。
(ちなみに
坂上田村麻呂:征夷大将軍。桓武天皇に命じられ東北の蝦夷討伐に活躍。
百済王明信:藤原継縄の妻でありながら、女官として桓武天皇に仕え、最も寵愛を受けていたとも言われる女性。)
この4人なのねーと興味深く思う。
内裏公園
次は内裏跡に向かいました。
ちょっとした遊具のある公園で大極殿公園ほどには礎石の跡などはありません。
大極殿から内裏ってけっこう離れているのだなというのが感想です。長岡京では政治の場と生活の場はしっかり分けられていたということでしょうか。
約160m四方の塀の北西角部分を保存し復原したものです。
築地回廊跡
お次は歩いて築地回廊跡へ行きました。
幅2.1m、推定の高さ4.5mの瓦ぶきの土塀跡です。
朝堂院公園
ここには、事務所がありスタッフの方がいてお話を聞いたり、地図をもらったりしました。
私がアプリを入れたことを言うと、「夕方になると怨霊がでるらしいよ」などと教えてくれました。VR用のメガネもくれました。とっても親切で色々聞きましたよ。
天気が悪いのですが、AR長岡で見ると晴天です。
人物カメラで探すとここは馬に乗った坂上田村麻呂が縦横無尽に走り回っていました。
こういったアプリを使うと子どもとか興味を持つかもしれないですね。いい年したおばちゃんも「あ、坂上田村麻呂だ!撮らなきゃ」と懸命にスマホ片手にウロウロしてしまったし。
向日神社
こちらのスタッフの方に、ここから歩いて5分ほどの高台にある向日神社まで行くと、この長岡の街が見下ろせると聞いて行ってきました。
向日神社は奈良時代に創建された由緒ある神社で本殿は重文に指定されています。中世には一揆の集結地になったとか。もとは南向きだった本殿が1831(天保2)~1842(天保13)年に東向きに建て替えられました。
長岡京の感想
この日は朝夜行バスで京都につき、そのまま京都駅から長岡に来ました。
京都と大阪の間で便利な場所ですよね。住宅が多い理由も納得です。
難波から淀川・桂川で物資を運べることができて、広い丘陵地帯にあるという大きな都市をつくることに適した地と習っていましたが、実際に歩いてみると確かにそうだなあと。
早良親王の事件がなければ長岡がずっと都となっていたかもしれません。
微妙なアップダウンはありますが、全体として平らな土地で、大都市向き。
古墳も多くあり、銅鐸の鋳型が発見された弥生時代の邑もあったりと古代からこの地は人が住みやすい場所だったと実感しました。
長岡は勝竜寺城があり明智光秀や細川ガラシャともゆかりがあるのですが今回は割愛しました。
長岡天満宮に行きました
コロナ禍も収まりつつあり、やっと旅行もできるかなと思い関西にでかけました。
みんなが行きたいところは友人や家族と行くことにして、今回の一人旅のメインは「宮跡めぐり」。
ですが、合間合間にメジャーな観光地も取り交ぜながら楽しんできました。
一人旅なので、今回も節約旅。
東京から夜行バスで京都駅に朝の6時半到着。夜行バスで行くと朝イチから行動できるので便利です。でも、今回は帰りも夜行にしたけど、疲れるから帰りは新幹線にしようと決意しました。
長岡京で降りた目的は3つ。
①長岡天満宮
②乙訓寺(継体天皇の弟国宮伝承地探し)
③長岡京の宮跡めぐり(現在は一部史跡公園として整備されています)
阪急長岡天神駅を越えてまっすぐ歩くと長岡天満宮がありました。
こちらは菅原道真が在原業平たちと詩歌管弦の遊びをした場所であり、左遷されたときにこちらに立ち寄り自作の木像を祀ったのが創立の由来ということです。
夜はライトアップのイベントがあるようです。
天満宮なので境内には牛の像があちこちに。
菅原道真にちなんだ歌碑などがあります。
この鳥居は霊元天皇が上皇になられてからの元禄5(1692)年に寄進されたのですが、平成30年の台風21号によって壊れてしまい、修復不可能ということでこのまま保存されているそうです。自然の力って怖いですよね。
境内の弁天池のところに「紅葉庭園 錦景苑」がありました。紅葉の季節が待たれます。
天神さまは全国に数多くありますが、学生じゃなくなってもつい見かけるとお参りしてしまいます。
移動の途中で見かけたもの。
長岡天満宮から北東に進んでいるうちに今里地区というところを通りました。
吉野の修験道の根本霊場の大峰山に参拝する前に、道中安全と修行成就を祈って禊をした泉があったところです。
大峰山参拝は成年儀礼として行われ、この禊場は昭和40年頃まで使われていたそうです。
街を歩いていて思ったのは、長岡市は京都にも大阪にも近くて便利なところだなあと。
川があって、適度な広さがあって、これが長岡京が作られる理由ですね。
今回の旅行では、実際に街を歩くことで都が作られた地形なども感じられたらいいなと思っています。
日帰り佐倉旅行
秋の気候も良い日だったので、千葉県の佐倉市に行ってきました。
写真をたくさん撮ったつもりが、間違えて消去してしまったみたいで残っていたわずかなもので旅行メモとしてアップします。
佐倉草笛の丘
入場料大人410円
バラ園が有名だったので行ってきました。HPでは「咲いています」とあったのに、10月末は見ごろをはるかに過ぎていました。
春の盛りならきっと素晴らしいと思います。がっかり。
こちらの草笛の丘は、BBQや芋ほり体験など小さいお子さんがいたらきっとすごく楽しいと思います。我が家は中年夫婦二人なので、バラが咲いていないとちょっと・・・
去年京成線の崖の上に逃げていた山羊はこちらに保護されていて「ポニョ」と名付けられ可愛がられていました。
京成佐倉の駅からはバスが出ています。一時間に一本しかないので時間は良く調べてください。駐車場は無料なので車の方が便利かも。
お昼はおかやま食堂
コミュニティバスで京成佐倉駅に戻り、佐倉街道に向かって歩いて約10分ちょっと。
おかだや食堂でお昼ご飯にしました。
お肉屋さんが経営している定食屋さんだけあって、お肉・揚げ物メニューが充実しています。
が、おすすめは日替わりランチ(税込み1,210円)だと思います。
私たちが訪問した日は、ヒレカツ・コロッケ・刺身盛り合わせ・なめこおろし・ひじき煮物・アラ汁・漬物・杏仁豆腐でした。
ボリューム満点でヒレカツが厚くて美味しかったです。
夫さんは「近所にあったら週一で行く」と言っていましたが。
くらしの植物苑
途中に「くらしの植物苑」があったので入園(大人100円。国立歴史民俗博物館の半券があれば入場可能でした。先にこちらに来たので残念)
食べられる植物・道具にする植物など用途別に暮らしに役立つ植物が植えられていました。
ただ、10月末ともなると花も終わり淋しい限り。
今回は失敗でした。
綿の木の写真を撮ったのに、消去してしまって残念。
国立歴史民俗博物館
むやみに大きい建物で、展示室も広く、そして周るのに効率が悪い。
しかし、大きいのでジオラマなど精巧なものが多くて私としては楽しい。
複製品も多いけど、こちらは出土品などを展示するというよりも、生活の様子などを再現して理解を深めるものなのだと思っています。
この頃には夫さんが疲れたのと興味がなくて、出口の休憩所で待っている状態に。
ざっと展示を見て解説パネルを写真で撮ったのに、間違えて消去してしまってホント自分にがっかりです。
貴族の屋敷の再現なんて調度品が素敵でした。
あらら、今パンフレットを見たら「洛中洛外図屏風」は複製ではなく原本だったみたい。見ていたけど複製だと思って屏風をじっくり見なかったーー。
越前一条谷朝倉屋敷のジオラマに見入っちゃってました。
第三展示室(近世)は江戸時代。
都市・むら・海外との交流などの展示でした。
江戸日本橋界隈のジオラマが細かくて好き。この博物館、ジオラマ好きならハマります。
第四展示室(民俗)
入ってすぐにお歳暮の見本があってビックリ。あれは何?
2013年にリニューアルした展示室で、民俗ということで、祈りや祭り、妖怪など色々ありました。
うーん、微妙な展示でした。
第五展示室(近代)明治以後です。
文明開化によって近代化した様子とそこから生まれた格差、北海道開拓とアイヌ民族の公民化などの展示がありました。
レトロな映画館の再現など昭和の町並みのようでした。
こちらの博物館は基本的にフラッシュ焚かなけれなば撮影OKなのですが、部落差別についての展示については「撮影禁止」でした。
差別戒名などがあるなんて知らなかったです。
第六展示室(現代)は戦前と戦後。
佐倉連隊の兵舎の再現や銃後の生活、占領下の様子(闇市の実物大再現など)に始まり、戦後の生活革命として公団住宅の再現(家具・家電など昭和40年代生まれの私は微妙に知らない物がありました。例えば洗濯機は二層式からしか知らない。昭和30年代生まれの夫さんは、横にハンドルがついて絞る形式の洗濯機を知っていました)などなど。
今回は、夫さんが途中で疲れて興味なくなってしまったみたいで、焦ってしまったのでもっとじっくり見たかったなあと。
コロナ禍の影響か、映像資料のボタンが全て使用禁止になっていて、映像資料が見られなかったのも残念でした。
一日歩き回って充実していたけど、少々残念な感じでした。
リベンジする?どうしよう、という程度です。遠いからまた行きたいという感じでも・・・