今回の旅行で一番行きたかったところ、それは武寧王陵でした。
去年から日本古代史がマイブームとなりどうしても百済との関係が大いに気なります。
武寧王は、日本で生まれその後百済に戻り、
高句麗の攻勢を跳ね返し百済の中興の王様なのですが、
その陵が1971年に未盗掘の状態で発見されたというからすごい!
墓誌石から年代も特定でき、まさに考古資料の一級品。
これはぜひとも見に行かなくては―。
武寧王陵へのバスは101番
麻谷寺から総合バスターミナルに戻ってきてバス停に降りると、公州市内の観光パンフレットを持った若者がいました。
その若者に、「武寧王陵に行きたいんだけど、何番のバスに乗ればいいですか」と聞くと、
「僕も観光客だからわからないんだけど」と言いつつスマホで検索してくれて「101番ですよ」と教えてくれました。
おや?検索するということは、この若者は武寧王陵にはいかないのかな?
ほどなくして101番のバスが来て、若者も乗り込み、彼は公山城で降りていきました。
ありがとうー、親切な若者さん。
私は、運転手さんに「どこで降りたらいいか教えてください」と頼んでいたので運転席のそばの席で待機。
教えてもらったバス停から言われるままに進んでいくと、「熊津百済歴史館」がありました。
中の見学は後回しにしてまず武寧王陵に行かなくちゃー。
武寧王陵
この中に入ると「武寧王陵に行く道」という看板があり(赤丸)、エスカレーターを登り裏手の道を進んでいくと、古墳群の入口があります。
チケット売り場が閉まってる、と一瞬ヒヤっとしたら無料入場でした。
ピクニックのおばさまの団体さんが出てきました。
どうしてみんなくりくりパーマなんだろう。
地図を見ると、1-6号墳と武寧王陵があるようです。
独立した円墳ではなくて一つの墳丘に武寧王陵と5号墳、6号墳がありました。
1-5号墳は横穴式石室、6号墳と武寧王陵は石室ではなくレンガで作られています。
横穴式石室は日本でも見ますが、れんがというのは中国墓制の影響です。
6号墳には四神図が描かれているとか。
武寧王陵の上に人がいるのはおそらく調査中のため。
初め学生さんがふざけているのかと思ってびっくりしました。
1-3号墳は小さな円墳。
4号墳は方壇段丘墳です。段丘がいまいちよくわからないけど。
本当はこの古墳群の中に模型館があって、6号墳と武寧王陵の内部を再現している様子を見ることができるのですがなんと工事中で入れず。
だから無料だったのかな。古墳の入口は扉が閉められ中を見ることはできず。
とても残念でした。
がっっかりしながら、古墳群の裏手を進み、公州国立博物館の裏門から中に入ります。
とても立派な公州国立博物館
立派な博物館なのに見学者は私一人。
受付のスタッフは終始スマホをいじっていました。
先史時代はすっとばして、見たかったのはこちら。
墓誌石が発見されたことで築造年代が判明したというその墓誌石。
館内には、映像資料というかハングルだけでなく、英語・中国語・日本語に翻訳してみられるガイドがあります。
日本人なら漢字をあててくれればこれでも十分なのですが、
さらに日本語訳までしてくれます。惜しい!「崩御なちった」
「崩御」という文字を使っていることから、武寧王は日本の侯王ではないという本を先日読んでいたので本物を見てドキドキ。
xiaorenretirementlife.hatenablog.com
墓の入口にあった石獣。お墓を守るもののようですが、どこか可愛らしい。
木棺は高野槙で作られていて、この木は日本でしか採れないものとか。
王様と王妃様が仲良く埋葬されています。
副葬品もきらびやか~。王様の金製冠飾り。
王様の棺の中からの副葬品の展示。環頭太刀や枕、鏡などがありますね。
たしかこの鏡、群馬の綿貫観音山古墳から出土した鏡と同笵鏡だったような・・・
一人でキャーキャー言いながら見てました。
王妃様の金銅の靴。底にスパイクのような飾りがついていてこれもどこかで見たような・・・
この武寧王の部屋は壁が陵の壁のようにレンガでできています。
思い切り楽しんだので、2階の中世・近世文化はざっと流す。
国立博物館を見学した後、市内へ戻ろうと思う。
でも、バス停には時刻表が貼ってあるけどバスが来る気配がない。
もしかしたら101番のバスが寄るのかもしれないけど、まわりに人影がないので待つより歩いたほうがいいかもと歩き出す。
韓屋村があったけど、閑散としている。
休日なら色々な文化体験ができるようでしたが、平日は誰もいない。
実は、ここに泊りたくてサイトを見たけど、団体用の大部屋は予約できても2人部屋とかは予約できませんでした。
平日だからなのかな?
市民運動場もまったく人影がない。
そんな中やっと熊津歴史館まで戻ってきました。
ここは、出土品の展示というより資料の展示が中心でした。
百済が公州に遷都した歴史や、武寧王が日本で生まれた話などが展示されていました。
日本語もあるのでわかりやすかったですよ。
公州は昔は熊津と呼ばれ、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)と表記・呼称されていました。
その熊津の由来を読んでびっくり。
熊が女性に変身し、道に迷った木こりとの間に子供をもうけ仲良く暮らしていたが、木こりが村に帰ってしまい、寂しさのあまり錦江に身を投げた。
その後錦江が氾濫したので追悼したとか。
その場所が熊の津(船の渡し場)というような話でした。
誰もいなかったので、合成でコスプレ写真を撮れるものに挑戦(笑)
カメラの位置がわからなくて目線がずれているけど、まあまあ。
一番来たかったところの見学を終えてやや燃え尽きた感あり。
雨が降りそうな天気で、残すは公山城のみ。
お昼は食べずにこのまま一気に登ってしまおうーー。
公山城へつづく・・・