御陵印を頂く旅をしてきました。
その時にただ御陵印を集めるだけでなく、なるべく御陵を周りたいと思い、午前中に古市陵墓監区事務所に行ったので、午後は王陵の谷ともいわれる河内飛鳥の地を散策してきました。
二つの飛鳥
関東出身の私にとって、飛鳥と言ったら奈良県明日香村のことしか思い浮かびませんが、大阪にも飛鳥という地名はあることを勉強するうちに知りました。
「古事記」によると
反正天皇が難波から石上神宮へ参拝するときに二泊した地を近いほうを「近つ飛鳥」(現在の大阪市羽曳野市飛鳥近辺)、遠いほうを「遠つ飛鳥」(現在の奈良県明日香村飛鳥)と名付けたそうです。近つ飛鳥には渡来系氏族も多く国際色豊かな地域でした。
さらに、南側の磯長谷は「王陵の谷」とも呼ばれていて、聖徳太子・推古天皇・用明天皇などの多くの天皇陵があります。
近つ飛鳥博物館
河内長野の「喜一」さんでふるさと納税でいただいた「三段弁当」ランチを美味しくいただいた後で、近鉄喜志駅へ移動。ここからバスで博物館へ向かいます。
博物館へのバスは本数が少ないので博物館のHPなどで時間を確認してください。
バスに乗ること15分弱、風土記の丘の前でバスを降り、博物館にはこの丘を横切っていきます。
この丘自体が一須賀古墳群という群衆墳が分布している地なので、それらをめぐりたいところですが時間の関係で博物館へ直行です。
博物館の入館料は310円。
縮尺150分の1の模型とその周囲には古墳づくりや当時の人々の暮らしの様子が再現されていて、ジオラマ好きとしては楽しかったのですが・・・
複製品や復元品などが多くて、うーん。社会科見学などで行くにはいいけど、大人が行くのはどうなんだろう?
あっさり見学を終えました。
この後、王陵の谷めぐりをしながら上ノ太子駅をめざします。
たどり着けなかった蝦夷の墓
博物館から上ノ太子駅までの散策ルートをGoogleマップで調べていたら、博物館のすぐ近くに「伝・蘇我蝦夷の墓」がありました。
あまのじゃくな私は蘇我が本当に悪者なのか?という思いから蘇我氏推しなので、どうせなら「伝でもいいから蝦夷の墓に行ってみたい」と思いたちました。
が、博物館から15分で着くというその場所には何もありません。
なんどもウロウロして経路を検索しなおしたりもしましたが、ここだという。
Googleの書き込みでは最近も行っている方の口コミもあったのに。
地図には自信があった私ですが、たどり着けなかったことと30分近く時間をロスしたことでしょんぼりしてしまいました。
推古天皇陵
伝・蝦夷の墓から徒歩23分強。推古天皇と竹田皇子の合葬の推古天皇陵(磯長山田陵)に行きました。
植山古墳(橿原市にある古墳。推古天皇と竹田皇子の陵墓との説も)から改葬されたと考えられています。
思えばこの地に多くの陵墓があるというのは、ここが当時権勢を誇っていた蘇我氏の勢力圏だからなのでしょうか。
今は本当にのどかな田園地帯です。
小野妹子墓
農道を通っていけば多少近道だったのに、どうも大回りをしてしまったようです。
推古天皇陵から科長神社へ20分ほどかかり、小野妹子墓にも行ってきました。
遣隋使として有名ですが、小野妹子は実は第二次遣隋使。
第一次遣隋使は先進文化国の隋から全く相手にされなかったので日本側の歴史から抹殺されてます(笑)
そこから改革をして(17条の憲法などを作ったのもそのため)、第二次には小野妹子が「日出づるところの~」を持っていき煬帝に怒られて、国書を失くしたりもしましたが(失くしたことにしたいほどの内容だったのかも?)、成功したといえるのではないでしょうか。
奈良の明日香と思っていましたが、ここに葬られていたんですね。
孝徳天皇陵
乙巳の変(今では入鹿が倒された事件自体はこう呼んで、大化の改新はその後の改革を示すそうですね)後に、皇位についた孝徳天皇の陵は磯長谷にあります。
住宅街に戻ってきましたが、自販機もコンビニも見つけられません。
難波宮で崩御されたのにここに埋葬されているのはなぜでしょう。
もっと勉強しなければ。
ここまで来たからにはと、大化の改新つながりで蘇我山田石川麻呂の墓にも行ってみます。
蘇我倉山田石川麻呂の墓
孝徳天皇陵から約10分。仏陀寺というお寺の前に碑がありました。
後に調べたら古墳もあったようですが、そのときはお寺の中には入れなそうな雰囲気だったためこの碑の写真を撮っただけになりました。
伝蘇我馬子墓
石川麻呂の墓まで来たら、そばにある馬子の墓にも行かないと。
(伝)ですけどね。12、3分ほどです。
来歴を見ると、一時は妹子の墓と伝えられたこともあるこちらの墳墓。
蘇我氏ゆかりということは間違いないようです。
かなり傷んできたので、平成17年に植木さんが直したと碑にありました。
すばらしい!私にも余剰財力があれば文化活動におおいに貢献するのに!
用明天皇陵
磯長谷には、推古天皇陵、聖徳太子の廟、用明天皇陵、敏達天皇陵、孝徳天皇陵と5つの陵があり、王陵の谷と呼ばれているのですが、この5つの陵が梅の花のように見えるので梅鉢御陵ともいうそうです。
御陵印の旅なので、すべて行きたいところです。
ここに行くためにまたもGoogleマップの情報に惑わされました。
叡福寺東の交差点から用明天皇陵に行くときにGoogleマップの案内通りに進んでいたら、新興住宅街の中に入っていきます。
道も若干登り基調。子供も多くて新しい町といった印象。
が、用明天皇陵の拝礼所が見えるのは、なんと住宅街の家の向こう。
Googleマップの更新が追い付かなくて、以前は通れた近道が今は住宅で通れないようでした。
と、いうわけで、叡福寺東の交差点まで戻り、太子中学校のほうへ向かって拝礼所までの参道を通り参拝しました。
まよったせいで15分くらいウロウロ。
これは、仏陀寺からまず用明天皇陵に行き、それから馬子の墓にいったほうが動線がよかったかも。
この後は叡福寺へ戻り(約10分)、聖徳太子廟をお参りです。
聖徳太子廟(叡福寺)
多宝塔が遠くからも見える叡福寺。聖徳太子はこちらに生母の穴穂部間人皇后と后の膳郎女と合葬されています。
天皇でなくても皇太子なら陵でもいいのでは?と思う。
仏教を広めようとした太子ならではと思い写真を撮りました。
時刻は4時半。
梅鉢御陵には敏達天皇陵が残っていますが、すでに秋の夕暮れ。バスは1時間に2本程度で待ち時間が長かったので、叡福寺から2km弱を上ノ太子駅まで歩きました。
叡福寺の周りは住宅街ですが、上ノ太子駅まで途中で民家がとぎれてしまうところもあるし慣れない土地なので、暗くなったら歩くのは少し心配です。
日が沈み切る前に駅につかねば!と一生懸命歩きました。
ちなみに叡福寺から敏達天皇陵まではGoogleマップでは徒歩23分。
こちらに寄っていたら真っ暗になりそうで今回は泣く泣く断念。
梅鉢御陵コンプリートならず。
河内飛鳥散策
他に上ノ太子町には、今回は全くかすりもしませんでしたが、河内源氏ゆかりの地などもあります。
実際には多少迷ってウロウロしているのでもう少し距離が長いと思います。
観光しながらだったので、喜志駅を13時にスタートし上ノ太子駅についたのが17時でした。
それでも、博物館は駆け足だったし、叡福寺ではわずかの差で宝物館に入れず。
休憩するところも見つからなかったので、暑い季節の散策は気をつけないと。
無人販売所のみかんをたくさん見たので、いざとなったらみかんで水分糖分を補給かな。
御陵印を頂く旅なので、御陵を参拝しながら、蘇我氏の墓(伝ですけど)もまわり、このあたりが当時の先進地域だったんだなあと考えながら歩きました。