中学以来の大好きな友人が下関に住んでいます。
会いたくなると押しかけて遊んでもらっていましたが、御子たちも大人になり旅行ができるようになったので、今年2月の魏志倭人伝の旅に続いて、今度は熊本古代史旅です。
xiaorentraveldiary.hatenablog.com
今回も、福岡空港まで迎えにきてもらって、熊本までドライブ。
熊本に行ったのに城は行かない。でも、とても充実した三日間でした。
ランチは「Joyfull」
千葉にはないファミレスのチェーン店。
よく連れて行ってもらったので、懐かしくて入店。
忘れられないのが、友人の息子ちゃんが小学生の時に、ドリンクバーを全種類混ぜたドブ色の飲み物を満足げに飲んでいたこと(笑)
美味しいのか?それ、と突っ込みたかった。
イケメンの若者になった現在、そんな思い出語ったら怒られそう。
子どものいない私にとっては(親戚づきあいもそれほどでもない)、友人の御子たちは親戚の子のよう。
大きくなったねぇと勝手に思う。
飛行機がお昼に着いてのんびり食べていたら案外時間が足りないことに気づく。
ざっくり「磐井の乱」について
527年に始まり、翌年ヤマト王権軍により鎮圧されます。
朝鮮半島西南部の「百済」救援のため、ヤマト王権が軍事的負担を強要し、それに反発した九州の豪族たちが、筑紫君磐井を盟主として起こした反乱と言われています。
日本書紀では、新羅と結んでヤマトに反逆した悪役ですが、実際は違うのでは。
最近の研究では、自らの権益を守り、ヤマト王権からの独立を目指した「独立戦争」と考えられるようになり、「磐井の戦」と呼ばれる意見も多数。
もらったパンフレットには「八女の地を守り、九州を守ろうとした郷土の英雄」とあります。
私もそんな気がします。
学生の頃は、中央集権的な歴史を教えられてきたけど、大人になった今は、そういったしばりなく、双方向から色々調べようっと。
敗れた磐井は日本書紀では殺されたことになっていますが、「筑紫国風土記(逸文)」には、豊前国上膳の県に逃れたとあります。(当時、上膳には新羅からの帰化人が多く居住していたので、無い話でもない)
敗れた英雄に生きていてほしいと思うのは判官びいきの日本人だから。
乱後、息子の葛子は、糟屋の屯倉を献上し、築後国の国造として生き延びます。また、物部麁鹿火がヤマト王権軍の大将でしたが、乱後、物部氏が九州に進出してきます。
磐井の乱後、石人ではなく、九州には石室内に図文を描く装飾古墳が出現します。
八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」
八女市にある岩戸山古墳は、この地に大勢力を誇っていた筑紫君磐井の墓と言われていて、石人や石馬で有名です。
公共交通機関ではちょっと行きにくい。(学生の時にゼミ旅行で来たはずだけどどうやってきたんだろう?)
岩戸山古墳に隣接する「いわいの郷」という資料館(無料)でまず出土品などを見ます。こちらには、石人の本物も展示してあります。
一般的な古墳は埴輪ですが、筑紫君一族の勢力圏は埴輪だけでなく、石人石馬で古墳が守られています。
九州には装飾古墳も多いし、ヤマトとは違った埋葬法・宗教観があったということでしょう。
5世紀前半頃、初代筑紫君と思われる石人山古墳の被葬者(磐井の祖父と推定)は、石人に象徴的な意味合いを見出し、同族結束の証として石人を用いたと考えられています。
友人にこの石人と一緒に写真を撮ってもらったのだけど、非常に嬉しそうな顔をしていて恥ずかしかった。
石人の頭部が頭巾をかぶったほっぺ赤い子どもに見えてしまう。
磐井の乱後、ヤマト王権軍は石人を破壊しました。墓を守ることができないように?
赤や緑で塗られた石人を見て脅威に思ったのかも。
いくら凝灰岩が加工しやすいとはいえ、埴輪より素朴な感じがするのは否めませんが、大きいのでやっぱり迫力ありますね。
前立てのついた冠は新羅風。
筑紫君は大陸との交流が盛んでした。
こちらの耳飾りは新羅製と考えられています。金の小粒が吹きつけられていて、ゴージャス。
新羅といえば、金冠などの金製品が有名ですよね。
新羅は「黄金の国」などと言われる(神功皇后は神託を受けて攻めたし)が、大きな金鉱はなくどこから金を入手したのか不明と以前何かで読んだが(すみません、出典メモ忘れ)、新羅時代の砂金が発見されたというニュースをネットで見つけました。
(2015.3.8 中央日報日本語版)
友人とキャッキャッと見学していたら、おじさんたちの一行に「どこから来たの」と二度も話しかけられる。私は千葉から、友人は山口というと驚かれた。
あのおじさんたちはなんだろう?歴史にそれほど興味がありそうにも思えない。
どこかの町会議員の視察旅行でとりあえず資料館に来たけど、本当の目的は夜の博多とか?(失礼発言)
こちらの資料館は、磐井の乱についての短いアニメもあるし、パンフレットは写真付きで分かりやすいし、それでいて無料なので素晴らしいです。
岩戸山古墳
資料館を抜けると、広場に出ます。
一辺43mの大きな正方形の「別区」は、政治の場で、「解部(ときべ)」という裁判官が「偸人(ぬすびと)」を裁いたと「筑紫風土記(逸文)」にあります。
そして、遠くに見えるのが石人たちのレプリカ(本物は資料館で見た)。
ふと、思う。
乱の後でヤマト軍が石人を壊したというけど、乱で敗れる前に古墳があったのかな?
被葬者も磐井とされているけど、乱の後で葛子が作ったとしたら、石人は無事なのでは?生前に作る寿陵だったのかな?
パンフレットには書いてない。宿題ができてしまった。
レプリカだし、石だから石馬に子どもが乗っても問題ないと思う。
石人を堪能したので、古墳も見たい。
別区の隣にこんもりした林のような丘があるので多分それだと思って近づく。
大きいのと木が多すぎて全体像が見えず。
途中まで上って見たけど、足場が悪くてやめました。
初日に捻挫なんてしたら目も当てられない。
「風土記」には「高さ7丈、周囲は60丈、墓域は南北が各60丈、東西が各40丈」とあり、
「全長は138m、周りを囲う周堤まで含めると約170m(約60丈)で、後円部径は72mで、周提まで含めると約110m(約40丈)」と、風土記に記載の内容と合致します。
別区だけでなく、こちらにも石人や石馬がいたようです。
福岡の古墳では最大(ネット情報)
ちなみに日本最大の大山古墳(仁徳天皇陵)は525m以上という説あり。
銀杏の名所
岩戸山古墳の付近は八女古墳群として、筑紫君一族の古墳が多いですが、公開されてないし、時間も遅くなってきたので割愛しました。
友人が「この近くに銀杏の名所がある」と教えてくれる。
なんでも、以前はブドウ農家さんだったおじいちゃんが、おばあちゃんが亡くなってからブドウ畑に銀杏を植え始めたそうで、まだ若い木だから人が立つと全身が銀杏の黄金色に囲まれて映えるという。
真ん中は葉が落ちていました。黄色の葉の多い所は混んでます。
人だらけなので、写真をあげるのは避けましたが、なかなかいい感じです。
夏の暑さのせいか、きれいな黄色ではないのが少々惜しい。
友人が来た数年前はすぐそばに車を停めてぱっと見ることができたそうですが、今やSNSのおかげか有名で、かなり遠くのグランドの駐車場まで行かされ、交通整備の人もいるほどでした。
素敵なところは早いうちに行かないと、有名になってからでは落ち着いて楽しめないかも。
友人いわく「ここに前に来た時には、近くに古墳があるなんて知らなかったー」
そのときに一緒だった方は古墳に全く興味が無い人だったので気づかなかったと。
つきあってくれてありがとうー。