福岡を中心に、「魏志倭人伝」に出てくる地域の遺跡を訪ねる旅行をしてきました。
遺跡や古墳はだいたい辺鄙なところにあるので、友人が車を出してくれて本当に助かりました。
いつも旅ブログは時系列に沿って書くのですが、今回は印象の強いところから忘れないように書きますね。
二日目の午後、糸島にある「伊都国歴史博物館」を見学しました。
ガイドさんの説明を頑張ってメモを取りましたが、数字など聞き間違い書き間違いがあるかもしれませんので、間違いの場合はお知らせ頂けると助かります。
ボランティアガイドさんは絶対に頼むべし
受付でお願いするとボランティアガイドさんがついてくれます。
あの内容で無料なんて!すばらしいとしかいいようがない。
時間は都合に合わせてくれます。
私たちはこの後平原王墓に行く予定だったので、日が暮れるまでに着けばいいくらいことを伝えると一時間半コースになりました。
説明が上手で(伏線を張ってちゃんと回収する)楽しくてあっという間の一時間半でしたよ。
言葉の端々に吉野ケ里をライバル視されているのが感じられるのも微笑ましい。
Facebookで「糸島ドライ部」というグループで糸島の魅力を発信している西本誠司さんです。
私はFacebookをやっていないのでフォローできないですが、みなさんチェックしてみてください。
そして、後から思う。これだけ楽しかったと言っておきながら写真を撮っていない・・・
糸島は伊都国があったところ
ボランティアガイドさんの受け売りです。
文化庁が指定した国指定史跡は福岡県は91ヶ所(奈良・京都に次いで3位)
特別史跡は4ヶ所で2位(1位は奈良)
糸島市には国指定史跡が8ヶ所あるとのことです。
福岡県がそれだけ史跡があるということを知りませんでした。
私たちは歴ヲタで「魏志倭人伝」を読んできたので、伊都国についてはざっくり知っているつもりです。
が、改めて言われると「へぇー」が多くて興味深いです。
・伊都国の字は悪い意味の字ではない(東夷をバカにする「魏志」にしては珍しい)
・かつては山側の怡土郡と海側の斯麻郡があり明治時代に糸島という地名が成立
・怡土という字は奈良時代に地名には好字二文字を当てるという法令ができて定まったもの(怡にはやわらぐの意味があります)
・伊都→伊斗→怡土→糸など変遷はあるものの地名の由来が弥生時代まで遡れるのは対馬など5か所しかなくとても珍しい。
かつて入り江がもっと深く入り込んでいて、伊都と斯麻はごく一部で繋がっているだけでした。しかし、両側の湾から出土した貝化石を調べてもDNAが違うので湾が繋がったことはない(斯麻とはいうものの島になったことはない)ようです。
この繋がっていた部分に「一大率」がいた伊都国の拠点集落があったのではないかという説もあります。
弥生時代の伊都国
伊都国と呼ばれるようになったのはいつ頃からかは聞きそびれてしまいました。
弥生時代といえば稲作ですね(今は縄文後期に稲作が始まっていたとされる)
またまた西本さんの受け売り。
稲作は朝鮮半島から伝わったように言われていますが、
温帯ジャポニカ種の米は250種以上あり、大きく8種類に分類されて、中国にはその8種類が全てあるそうです。
しかし、日本にはA、B種しかなくて、韓国にはB種というのがないそうなので、朝鮮半島から来たというよりも中国南部から直接来たのではないかと。
「稲作は支石墓と一緒に伝わった」と習ったけど、今の歴史は違うのね~。
支石墓は朝鮮半島に多いですが、糸島、唐津地区にも多く見られます。
(今回は行ってないです)
初代王の王墓「三雲南小路王墓」
弥生時代の王都なら環濠があってしかるべきですが、川に挟まれているので防御は完璧。
伊都国には3つの大きな弥生時代の墓が見つかっており、副葬品などから王墓だと思われます。
その中で一番古いものが「三雲南小路王墓」です。
今から約200年前(昨年2022年が発見200周年の年でした)に偶然甕棺が見つかり、「柳園古器略考」に発見当時のことなどが記されていましたが、その後忘れ去られていました。
昭和49年に再調査をして二号甕棺や副葬品も多く発見されました。
甕棺墓はいくつもまとまって群集墳となっていることが多いですが、ここは東西32m、南北31mの墳丘を周溝が囲んで、この二つの甕棺しか埋葬されていないことから、特別な存在の王墓であったのではないかと考えられます。
一号甕棺は彩画鏡、雷文鏡などの鏡(大型鏡多い)35面、銅矛、銅戈やガラス玉、金銅四葉座飾金具など、
二号甕棺は小型の前漢鏡22面、ガラスのペンダント、翡翠やガラスの勾玉が出土しています。
ここから、一号甕棺は男王、二号甕棺は王妃が埋葬されていたと推定されます。
博物館は写真撮影OK(国宝があるのに)という気前の良さなのに、説明聞いて笑っていてあまり写真を撮っていなかったです。
このガラスのピアスも友人と「こんな小さいの、見つけても分からなくてポイしちゃうよねー」などと話してて写真撮り忘れ。
日本で唯一の発見例だというのに・・・。実物見てます!
さらに、鏡が57面も出ているというのは、古墳時代に入ってからもほとんどない。(奈良の黒塚古墳(崇神天皇陵と比定)でさえ34面だし)
甕棺も復元されたものが展示されていましたが大きいです!
(これまた甕棺の見過ぎで慣れていて写真撮らず)
そして、その修復に使われているのはなんとセメダイン。
モルタルやなんか自然の成分でくっつけているのかと思っていました。
幻の王墓「井原鑓溝王墓」
こちらも江戸時代に見つかって記録(青柳種信著「柳園古器略考」)は残っているのですが、正確な所在地が今では分からず、再調査もできていない状態です。
民家が立っているので調査ができないそう。
驚いたのは、もし自分の土地から何かが出土しても、その調査費用は自腹だそうですよ。
国や県が買い上げてくれて調査保存してくれるならいいけど、自腹で調査するなんてリスキー。
そう思うと、何か出土しそうな歴史ある地域の土地には手を出さない方がベターですね。
ガラス玉の青色はとっても好み。
石硯
写真を撮るのを忘れたのですが、薄い石を硯替わりにして使っていたようです。
「鏡」のつくり部分と解読された文字が刻まれた甕が三雲井原遺跡から出土しています。
大陸や半島と交易もしていたので、文字を使っていたのかもしれません。
応神天皇の頃に王仁が千字文と論語を伝えたのが漢字の伝来となっていますが、公式伝来より前に便利なものとして使われている可能性はありますよね。(そもそも千字文は応神天皇の頃に完成してないから、この説自体が無理)
伊都国歴史博物館レポート続きます!