しゃおれんの旅日記

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(加筆修正再掲)ウズベキスタンの日本人伝説に思うこと

以前のブログで一番多く皆様に読んでいただいて、ブログの引越しで消えてしまうのは惜しいと自分でも思う記事なので、こちらのブログに再掲します。
ただし、この記事を書いた(2010年2月21日)から数年経過し、状況も変わってきているし、他の記事やウズベキスタン旅行(2010年3月)の記録にも分けて書いた文章などもあるので、それらも合わせて加筆修正という形で再掲したいと思います。
 
 
2010年3月のウズベキスタン旅行に向けて下調べをしていた時に、
胡口 靖夫氏の「シルクロード青の都に暮らす サマルカンド随想録」を読みました。
この本は実際のウズベキスタンの姿(と言っても筆者の目を通してに限る)を紹介する本で、
今まで読んでいた本が、夢やロマンをかきたてるものか、NHK取材班など政府の許可のもとでの取材だったために公式発表や政府見解のもとでしか取材できなかったものと違うため、とても面白かったです。

筆者はサマルカンドで国立外国語大学日本語学科で日本史や日本文化を教えている教授であり、
そこに暮らす外国人識者の目を通してウズベキスタンの生活を紹介してくれる本でした。
ウズベキスタンの歴史教科書が「歴史を考える力」を養う問題提起をしているところに注目し、
日本の教科書が重要と思われるところを太ゴシックで書いてあるだけの事実の列挙に閉口し、
教科書の作り方について提案をしているところも注目に値するものでした。


さて、ここでどうしても書きたいことを書きます。

ウズベキスタンに行くことを決めた当初「地球の歩き方 シルクロード中央アジアの国々」を買いました。
そこでタシケントに「ナボイ劇場」というものがあり、
それは第二次大戦後、シベリア抑留でタシケントに送られた日本人捕虜たちが建てたもので、「『日本人が建てたこの劇場は、地震の時にもびくともしなかった』という誉め言葉を聞くことがある。ここを訪れた際には、強制労働にもかかわらず、こうした見事な建物を作り上げた日本人先輩のことをも思い出してみよう」とあり、すごい!ぜひ見なくては!と思いました。

しかし、その後(2009年12月放送)NHK BSで見た番組で、第二次大戦で基礎工事が終わったところで工事が中断し、日本人抑留者はその技術的な仕上げ工事をしたということを知りました。
(つまり、基礎工事はしていないので、「日本人が建てたから壊れなかった」は事実に反する)

ただ、ウズベクにとって良かったのはその部隊が航空機の修理部隊(つまり技術集団)だったことらしいです。板金、溶接、配管、配線、左官などの技術まで。
かつての隊長が「なにかしら、みな技術を持っていたので何かできた」とおっしゃっていました。
「むこうも私たちはもうけものだったんじゃないか。
そして、私たちもここは寒さもそれほどじゃないし、
ここなら生き延びられると思った」と話してらしたし、
木材
の切れ端でマージャン牌を作ってマージャンした、なんておっしゃっていました。
「ただし、パンは賭けちゃいけないってことにしたんです。砂糖までなら良しってことで」
その番組では、帰国後も80歳目前のみなさんが温泉で同窓会をしているところが映されていました。(その放送当時で再放送だったので、現在ご存命の方は幾人いらっしゃるのでしょうか)

私は、その番組を見たときに
その時の隊長さんが「タシケントの皆さんはこっそり食べ物をくれたりしてとても良かった」とおっしゃっていたし、「一緒に作業をした」という話を聞いて、
「シベリア抑留」は絶対に許されるべきではない事実だと思うし、
実際に抑留された方たちの苦労を思うと発言自体がためらわれるけれど、
一縷の光明というか何かほんの少しでもいい話だと思って見ていました。

でも、どうしても私は、戦争さえなければその隊員の方たちも故郷で立派な職人さんとして暮せていたのに、と思ってしまうのです。
国を守るために命を懸けるって響きはいいけど、まず戦争にならないように内政を充実させ、上等な外交に努めるべきなのが政治家の役割なんじゃないかなと。
歴史に「もし」は禁止だけど、もし戦争がなかったら多くの命を犠牲にすることなく日本はもっと早くおおいに発展したのではないかと思ってしまうのです。
だって、終戦直後のあの状態から今の繁栄があるのですよ。もし、焼け野原にならなかったら、って。
 
 
話がかなり逸れました。
 
日本人伝説が生まれるに至ったのは、
仕上げ工事とはいえ、抑留生活という極限生活の中勤勉に働く日本人を見て
現地の人は日本人に対する敬意が生まれ、その後日本製品に対する信用なども加わり、
日本人観光客が落とす外貨や日本とウズベキスタンは戦火を交えたことのない国でもあることから
親日派の多い国でもあることから「なんとなく生まれた」そうです。
(これは何かで読んだ。その出典を忘れてしまったことを深くお詫びします)
実際に、ソ連時代、政府の命令に反して日本人抑留者の墓地を守ってくれた街の人々がいることに感謝します。

しかし、「日本人伝説」はある民法番組で紹介されてから一気に広まったこと、
日本ウズベキスタン協会HPに盛んに喧伝されていることや
ガイドブックに載ったことから一般的になったそうです。

筆者は教え子たちが観光ガイドをするときには
1966年の大地震の際にほとんどの建物は崩壊したのに、日本人が建てたこの劇場はびくともしなかった。抑留生活という限界のなかでこれだけすばらしい仕事をする日本人はすばらしい」という「日本人伝説」を語らないといけないことに違和感を覚え、その真偽を検証しています。

その検証が正鵠を得ていて共感を覚えます。
まとめの部分を引用します。
「ナボイ劇場の内外装の石膏彫刻や寄木細工の床張り工事、高所の照明器具取り付け工事、電気配線工事などは、日本人とウズベク人などの「連帯感が醸成された国際的なチームワーク」によるものである。あのタシケント地震のときには、彫刻が一つも「崩落」しなかった、照明器具が「落下」しなかった。これは実に快挙である」という事実に基づく公正な評価が、なぜできないのか。「シューセフの設計力、ソ連邦諸国の技術力、労働力で建設された建物が「崩壊」しなかったのは本当に見事である。しかし一方「親密度が深まった国際的なチームワーク」による内外装や電気系統が「無傷」であったのも賞賛に値する」という声が、どうして出ないのか。きわめて不思議である。今こそグローバル時代の先駆的な国際的共同作業を行った抑留日本兵の建設活動に対して、それにふさわしい公平な評価がなされるべきではなかろうか」


いつ帰れるか分からないという抑留生活の中、多くの死者が出るという過酷な環境の中、
勤勉に働き続けた日本人抑留者の方には非常に敬意を払います。
旅行前にツアーのガイドさんが事実に基づいた説明をしてくれることを祈っていたのですが、
ガイドさんは、あっさり「建設したではないですね、建設に参加したです」と言いました。
(ナボイ劇場のプレートにも「日本国民が建設に参加し、完成に貢献した」とあります。)
そのツアー参加者の中には一人も「日本で聞いた事実と違う!日本人だけで全て作ったんだ」と怒り出す人はいなかったので安心しました。
 
その旅行中に現地ガイドさんから聞いた話にみなもらい泣きしそうでした。
「私(ガイドさん)が日本語の研修で福岡に行ったときの会社の社長さんが、ここウズベクの日本人抑留者だった方で、その方が言ってくださいました。『ウズベクの人はよくしてくれた。冬の寒い時に服をくれたり、食べ物をわけてくれたり。それなのに、やっと故郷に帰ってみたらアカと言われて、仕事にもつけない、差別を受ける。違う民族の人に親切にしてもらったのに、故郷の人にいじめられた』と涙ながらに私に言いましたよ。ウズベク人はお客さんに親切にする民族なので、まじめな日本人が好きだったのだと思います。なのに、なぜ、同じ民族で差別をしたのでしょう」と。
この話を聞いていた時に、隣にいた最高齢と思われるご夫妻の奥様が涙を拭かれていたのを見て、もらい泣きしそうでした。きっとこの奥様も大変な時代を生きてらしたんだろうなあ、と。
ガイドさんは色々話してくれたのですが、ユーモアもあり時に熱血で、その旅行が彼のおかげで自分でも考えることができたし、何倍も楽しいものとなりました。
ツアーに一人参加だったので一人で考える時間はたくさんあったので。
 
 
 
私は自分の国の日本が大好きだし、素晴らしい国だと思います。
だけど、日本だけが美しく素晴らしい国だとは思いません。
自分の国の素晴らしさを認めることは、他国の素晴らしさをも認めることに繋がることにもなると思います。逆に相手の良さを見いだせないような子供は対等につきあう資格なし。
私は、日本が大好きだけど外国旅行も大好きで、出かけた先ですぐ感動してしまうけれど、
帰ってくると日本はいいなあと再確認できる素直さを持ちあわせて良かったと思っています。
 
自分に否があれば認め、正してこそ相手にもそれを求めることができると思います。
お互いが自分を正当化することに努め、相手を非難するだけでは理解することなんてできないですよね。(これは日本にだけ思うのではなくて、別の国々に対してもすーごーく思いますよ。)
力で自分の意見を通そうなんて、理性を持ち合わせた大人ではないな、と。
 
 
この世界中から偏見や対立がなくなって、誰も傷つけず、誰にも傷つけられない世の中になるという夢は、夢でしかないのでしょうか。