今回の旅行は、古墳は封印しているけど、世界遺産のキリスト教関連遺跡と明治の産業遺産(軍艦島)には行く予定。
今回のブログは、説明看板を引用(要約)しているところは『』で表示します。
原城跡へのアクセスと所要時間
島原駅前から原城跡に移動します。
加津佐海水浴場前行バスで約1時間(980円)。ICカードは使えません。
15:10発で原城前バス停に16:10頃着きました。
バス停から2kmほど離れたところに「有馬キリシタン遺産記念館」という資料館があるのですが、そこに行ってしまうと帰りのバスに乗れなくなるので泣く泣く諦めました。
純粋に原城跡の観光だけなら1時間強という感じです。
帰りは17:43原城前発のバスで島原駅に着いたのは18:48。
ゆっくり周っても少し時間が余りますが、バス停付近に休むところはありません。
大手門の先に「原城温泉 真砂」「原城の宿 城」というホテルがあり、レストランのランチ営業をしているようです。
バス停を降りるともう見えます。
仕寄場・二の丸
『仕寄とは、城などに攻めよせる際に設けられる構築物です。城中からの攻撃を防ぐための竹束や柵、見張りのための井楼などが設けられました。
原城の二の丸の出丸から北の三の丸に接する低地一帯に、立花、松倉、有馬、鍋島んどの軍勢が仕寄場を構えました。』
広いので本丸までは12.3分かかります。
ぶらぶら歩きながら、広さを体感します。
それにしても暑いーーー。汗がダラダラです。
『「原城跡」は、キリシタンが何をきっかけとして「潜伏」することになったのかを示す構成資産である。全国的に禁教政策が進む中、原城を主戦場として起きた「島原・天草一揆」は、江戸幕府に大きな衝撃を与え、カトリック宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航の禁止と2世紀を越える海禁体勢(鎖国)の確立、これに続く国内宣教師の不在という状況をもたらした。これによってキリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくこととなった。』
キリスト教関連の場所が世界遺産なのかと思っていたら「潜伏」に関連するところだったんですね。
自分が信仰を持たないからか、命を懸けて信じるということが今一つ理解できません。私は殺されちゃうなら簡単に信仰を捨てます。
『空堀は縦10m弱、横39m余りもあったそうです。空堀内部に小屋が立ち並ぶ様子を描いた絵図史料もあり、空堀の底にも一揆勢が所せましと駐留したと考えられます』
本丸は広ーい
本丸のそばの案内所で地図をもらって、本丸を見学。
一揆終結から130年後に、北有馬村の住職と南有馬村の庄屋乙名が、原城跡に残されていた遺骨を敵味方の区別なく拾い集め供養した地蔵塔です。
天草四郎もいましたよ。
肖像画は洋装なんだなあと思う。
築城当時は、この場所に天守相当の建物があったと推定されています。
石垣
幕府は乱の鎮圧後、徹底的にこの城を破壊しました。
石垣も崩して、再び積み上げられないように、いったん突き落とした築石を前方へ引きずり出し、再び突き崩す作業を繰り返し、破壊された石垣は礫と土砂で埋め尽くしたそうです。
『その様子は「一国一城令」による城の破却とは大きく異なり、幕府に抵抗した一揆勢の怨念を断ち切り、城の機能を徹底的に壊して廃城とし、原城がふたたび一揆の拠点となることを防止する意図があったことがうかがえます』
と説明書きがありました。
なお、原城では本丸のみ石垣が確認され、他の曲輪には石垣を伴わない土造りとなっています。
オランダ船が海から砲撃をしたというので、その海に面している所を見たくて、回り込んでみたりもしたのですが、イマイチ実感できませんでした。
浅間神社
その後、甬道(ようどう・トンネル)跡のある浅間神社に。
一揆の際に幕府軍が攻城のために日向から工夫を招いてトンネルを掘らせたけど、それを知った一揆勢は迎撃用の穴を掘り、煙でいぶしたり糞尿を注いで防いだと伝えられています。
神社自体は、有馬晴信が息子の乳母のために観音を祀ったところ乳が出るようになったことが始まりとされています。
『島原の一揆(1637-1638)の際に破壊されましたが、翌年住民によりお堂が再建され、浦田観音さまとして崇敬されましたが、元治元年(1864)、廃仏毀釈により仏像が拝され、木花咲耶姫・大山祇が祭神として祀られました』
島原の乱の翌年にお寺のお堂が再建されるということは、ここも住人全てがキリシタンだったわけではないんだなあと思いました。
バスは時間が限られますが、1時間半あったので余裕をもって見学できました。
要望出せるなら、「有馬キリシタン遺産記念館」を原城跡の中に作ってくれたなら良かったのに。