しゃおれんの旅日記

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魏志倭人伝の旅その2-伊都国歴史博物館はガイドさんが最高です②

伊都国歴史博物館の見学はまだまだ続きます。

歴ヲタの私達が前のめりで質問すると、ガイドの西本さんもノリノリで教えてくださって楽しい時間でした。

女王の墓「平原王墓」

伊都国の王都と考えられる平原遺跡。昭和に入って調査が行われ、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての墳丘墓、土坑墓、祭祀遺構、竪穴住居などが確認されました。

平原王墓のレプリカ

墳丘墓は五基発見され、その中で最大規模で豪華な出土品が発見された一号墓が「王墓」と考えられています。

国宝 内行花文鏡

鏡が大量出土しています。

方格規矩四神鏡

四螭鏡

方格規矩四神鏡(32枚)、内行花文鏡(7枚のうち、5枚は直径46.5cmの超大型鏡)、四螭鏡(しちきょう。「ち」とは龍の子供のこと。1枚)

種類が少ないこと、兄弟鏡が多いこと、彩色があることが特徴としてあげられます。

 

鏡は割られているものが多いのですが、友人は「埋葬するときに割ったのですか(今も埋葬するときにお茶碗割ったりしますよね)」と聞いていましたが、西本さんは「形見分けで持っていった」説もあると言っていました。

割ったものが完形にならなかったり、破片が磨かれていたりするそうです。

女王の服装

当時既に絹は入ってきて、染料もありました。なかなかおしゃれです。

庶民は貫頭衣だったっていうのに。

 

内行花文鏡は八咫鏡

出土した鏡にすごい謂れあり。

破砕鏡も多いのですが、完形の鏡も多いです。

そして、とても大きい。実用性はなく、おそらく威信財でしょう。

外周がちょうど八咫



平原王墓の発掘調査を行った原田大六氏は「この内行花文鏡はどうやら皇室の鏡と同型鏡ではないか」と主張しています。

八咫の鏡というけれど、咫というのは婦人の指を伸ばした長さで、ここの鏡は円周が八咫になっていること。

伊勢神宮の文献にある八咫の鏡が「八頭花崎葉形」と記述されているので、図肖が似ていることなどを根拠としています。

 

ということは・・・

伊都国の王は、ヤマトの王室の祖?

原田大六氏は「倭国を治める仕組みを再構築するため国の中心を近畿地方へと移し、それが後のヤマト王権になったと説いています」(平原弥生古墳のパンフレットから)

 

この原田大六氏は「ケンカ大六」とも呼ばれ、上の人とケンカしてでも出土品を中央に持っていかれないように守ったとガイドさんは言っていました。

友人と「そういう人、とっても大事よねー」と話す。

 

 

ついつい有名な弥生時代の王墓ばかり目が行きますが、糸島地方には今のところ、60基の前方後円墳が見つかっています。

東遷した伊都国王族(ヤマト王権)との結びつきで前方後円墳が生まれたと考えるのも面白い。

一貴山銚子塚古墳

説明パネルを撮って出土品撮らないミス

前期古墳で全長103m、玄界灘沿岸で最大規模。

10面の銅鏡(この古墳から三角縁神獣鏡が出土し、小林行雄が「同笵鏡論」の研究を進めたそうです)、両手に勾玉と菅玉を握り、太刀と剣なども出土しています。

 

糸島高校の生徒さんたちも発掘調査に参加したそうですよー。

私も学生のときに発掘実習に参加して何も出ませんでしたが、この時は大量にすばらしいものが出たから、たとえ触らせてもらえなかったとしてもきっと楽しかっただろうなあ~。うらやましい。

 

と、ここでそろそろ時間が迫ってきました。

私達に合わせて古代史メインで説明をしてくださり、常設展の民俗展示室などは見学せず。

 

天孫降臨は伊都国?

最後に窓の外に見える高祖山「クシフル」山、日向峠を見ながら説明を受けました。

糸島に「にぎの浜」という地名があること。

「高千穂」というのは固有名詞ではなく、高祖山も昔は高千穂と呼ばれていたこともあるそう。

高く稲穂が積まれるとかそういった意味なのかな。

そう思うと、瓊瓊杵尊ニニギノミコト)が天孫降臨したのは宮崎の高千穂ではないのでは?」と西本さん。

 

古事記」にはニニギノミコトのセリフとして、

『是に詔りたまひけらく、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」』

 

「韓国に向かう」とか「朝日が刺す」「夕陽が照る」のはまさに糸島半島がある伊都国であって、宮崎県の高千穂ではありえないというのがガイドさんの主張。

私はそういう話が大好きなので、なるほどー、へぇぇーと思って聞く。

でも、この話を宮崎県の関係者が見学に来た際に披露してもスルーされたそうです。

伊都国ファイティン!!

 

窓から見える高祖山には怡土城があり、こちらは古代の山城です。

しかし、古代の山城と言っても、大野城のような白村江の戦直後に建てられた百済式ではなく、奈良時代に建てられた中国式山城で、吉備真備が築造担当者だったそうです。

 

吉備真備は私の中でなんとなく不屈の政治家というイメージです。藤原氏全盛期において、何度か復活する。

 

図録お買い上げ

ガイドの西本さんの説明を満喫して、そろそろ平原王墓に行かないと日が暮れてしまう。

名残惜しいですが博物館を後にします。

入口にあった図録が気になって全部お買い上げ。

伊都国歴史博物館の図録

最近、対馬が気になって仕方ないんです

今回の旅行の初日は奴国めぐりでした

毎年企画展を行っているのですね。

今年はなんでしょう?お取り寄せしたいです。

袋をもう一枚買えばよかった

いつもは袋は断るのに、ここはなんと魏志倭人伝が書かれているので10円出して袋に入れてもらう。本があたって袋が傷んでしまったのが惜しまれます。

今回、この図録と王塚古墳でも本を買ってしまったので、帰りのカバンがすっごく重くて疲れました。(タクシー代を惜しんで歩いたので)

 

女王墓は峠に向かう

博物館見学の後で平原王墓に寄りました。

高祖山が見えます。

平原王墓

王墓は東西14m、南北10mの墳丘で周溝に囲まれ、墳丘の西寄りの位置に「鳥居状遺構」が見つかっています。

この鳥居から被葬者(足を峠に向けて埋葬)を通って日向峠に向かっています。

パンフレットからお借りしました

10/20頃に日向峠から、女王の脚の間を通って日光が通る。

この時期って今でいう神嘗祭の時期なんです。

当時は神嘗祭とは言わないけど、きっと収穫を祝う祭はしていたでしょう。

弥生人は農耕民族だからねぇー。

 

細石神社

伊都国歴史博物館から平原王墓に行く途中に細石神社がありました。

細石神社

本殿の前の門が気になります

本殿の前に鳥居ではなく、二本の柱が立ち、竹としめ縄が渡してあります。

何かの結界?参道の一の鳥居のところにも同じものあり。

こちらの神社のご祭神は、磐長姫と木花開耶姫です。

この二柱の神様の名前を見るたび「見た目重視のおバカさんが皇室の祖か

・・・」と思う。(誤解のないよういいますが、私は皇室や神話をこよなく愛しています)

 

充実した見学を終えて、この日は博多に宿泊。

糸島も博物館と王墓の見学だけで終わってしまった。

「糸島に行く」と旅行前に行ったら数人に「プリン食べてね」と言われたけど、はやりの海側には行かず。

「糸島に九大が移ってきたけど、バイト先や飲食店が少なくて学生は不満らしい」とは友人の意見。

友人が車を出してくれなかったら、レンタサイクルを借りてここまで来なければならなかったはず。

本当にありがとう~。