古代史上最大の内乱ともいわれる壬申の乱。
今回の旅行は滋賀県を中心にゆかりの地を尋ねてみました。
皇子山古墳
近江神宮に行こうと思っていたら、すぐ近くに「前方後方墳」の皇子山古墳を発見。
古墳マニアの私でもまだ「前方後方墳」は見たことがない。行かねば!
※壬申の乱とは関係がありません。
京阪近江神宮前で降りて、Googleマップの見ながら登って行きます。
しかし、最後の最後で行き止まり?
口コミの「経路案内で出る最後の曲がり角を曲がらずに、右手の下り坂の方に行くと皇子山古墳の石碑と説明板が見えてきます。さらにそこから急な階段を上るとようやく辿り着けます。」の案内通りに行ったら着きました。本当にありがたかったので「イイね」をつけさせていただきました。
これから行かれる方も、Googleマップの口コミを参考にしてくださいませ。
墳丘の大きさは約60m、琵琶湖側の葺石が丁寧にされていたとのこと。
現在のものは盛り土をして復元してあります。
写真は後方部にあたるのですが、前方部は草が生えていたり落ち葉が積もっていたりで、方形がよく確認できませんでした。
古墳時代前期の4Cに築造され、近江でも最古の年代の古墳であり被葬者は不明と看板にありました。
その頃から琵琶湖周辺には人が多く住んでいたとのことです。
築造年代は不明だそうですが、弥生時代の土器が多数発見されていることから弥生時代終末期とも考えられると看板にありました。
近江大津京
白村江の戦で新羅・唐の連合軍に大敗した日本は、唐の侵略におそれ各地に山城を作り、飛鳥から近江に遷都しました。
その後壬申の乱がおこり、敗者の都だった近江大津宮は廃棄されました。
わずか5年あまりの短い期間の都でしたが、亡命百済人などや他の国の文化や技術が取り入れられ、国際色が豊かだったようです。
今は国道47号線沿いにいくつか公園として発掘された遺跡の後が整備されいます。
今から1300年以上も前となれば難しいかもしれませんが発掘調査が進むことを期待しています。
弘文天皇陵
壬申の乱で敗れた大友皇子は、日本書紀では即位したという記録はありません。
日本書紀が勝者の大海人皇子(天武天皇)の命で編さんがはじめられたから当然ですね。実際即位していないという説が有力です。
しかし、明治になり弘文天皇と漢風諡号を贈られ第39代天皇とされました。
弘文天皇陵は大津市役所のそばにある長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定されています。
京阪大津市役所前駅で降りて市役所の前を消防署のほうへ進みます。
Googleマップの案内は消防署の駐車場を突っ切れと出てくるのですがやめましょう。
父親と自身の都の近くに眠っているので良かったのでは、と。
壬申の乱前後の古代史は、学生の頃本当によく勉強したので
大友皇子は今の芸能人よりもよほど知っているかもしれません。
といいつつ、私は大海人皇子推しなんですけどね。
宮内庁の治定されたこの御陵以外にも、逃げ延びた伝説とともにいくつか御陵伝説の場所があるのも、敗者に生き延びてほしいと願う日本ならでは。
近くの瀬田の唐橋が、壬申の乱の大決戦地ではありますが、以前行ったことがあるので今回は寄らず。(古代と位置も違っていますし)