夏前に歴史ドラマを見ていたので、久しぶりに扶余に行くことに。
日本古代史マニアとしては、百済の都は外せない観光地。
前回行かなかったところも追加しました。
ちなみに前回はこんな感じ。もう9年前なんですね。
xiaorentraveldiary.hatenablog.com
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南部ターミナルからバス
扶余へは、南部ターミナルからバスに乗ります。(高速バスターミナルではないですよ!)
ネットで時刻表は見られるけど、韓国の携帯番号がないと予約はできません。
日本語を選択してみたら、うさんくさい日本語です。
韓国語に戻しても「一次元高い市外バス統合前売りシステム」って書いてあったので、元のセンスの問題のようです。

予約はできないので、当日ターミナルでチケットを買います。
扶余は人気の観光地ではないから当日でも買えるんじゃないかな?多分・・・
私は朝6時半のバスに乗りたくて、6時15分頃ターミナルに着いても余裕で買えました。片道18,900W(約2100円)買えなかったらごめんなさい。

6時半に出発して、2時間の予定が途中で正安のSAに寄って到着は8時45分。
SAに停まったと思ったら、「15分後に出発します」というアナウンスが流れ、運転手さんは我先に出て行く。


フナ焼きが2個約500円は高いなと思う。
トイレに行って、お店をざっと見て早めにバスに戻って正解。時間より若干早く、運転手さんは全員いるか数えずに発車しました。
帰りも寄るのかと思ったら、帰りは寄り道せずに2時間切るくらいでソウルに戻ってきました。帰りの運転手さんは運転荒くてこわかったです。
運転手さん次第なのが面白いと思えない人はバス移動やめたほうがいいです。
バスは座席がゆったりしていて、リクライニングも思いきり倒せてしっかり寝られて、私は好きですけどね。
扶余羅城
街から離れて不便なところなので、前回行けなかったところ。
今回はタクシーで行きます。
市外バスターミナルから8,600W(約950円)でした。
発音が悪くて通じないと困るので、地名は書いてみせます。
運転手さんが「あそこが入り口だよ」というところから入って、おぉーと嬉しく走り回りながら見学。(実は、入口は別にあって入場料が必要でしたがタダで見学してしまった)

奥の山のほうまで土塁があるのが見えます。
羅城は、百済の都、扶余を防衛するために築かれた石垣というか土塁です。

オレンジ色で羅城の位置を強調してみました。
北には扶蘇山城があり、西には錦江が流れていて、東側はこの羅城が守っています。
防衛の機能だけでなく、都の内と外を分ける象徴性もあったと看板にありました。
となると、羅城のすぐ外側に王陵がいくつもあるのは、
王陵は都の中には築きたくなかったということなのかな?
扶余は、扶蘇山城が丘の上に立っていて、もう一つ丘のようなものがあるけど、全体に広々としています。これだけの広さがあれば人口も多くて栄えていたんじゃないかな。
扶余陵山里寺址
百済の威徳王14(567)年に聖王(日本に仏教を伝えたとされる聖明王のこと)の冥福を祈るために建立されたが、660年に百済が滅亡し、以後廃墟となったと考えられている寺院。
中門・塔・金堂・講堂が南北の一直線上に配置され、回りに回廊が造られた伽藍配置で、日本では四天王寺式伽藍配置と言われてます。
日本の飛鳥時代の代表的な伽藍配置ですよね。

工事中で塔のところまでいけなかったのですが、なかなかに規模が大きい寺院でした。

この寺院址から、百済金堂大香炉(国宝)と、寺院の建立年代がわかる山里寺址石造舎利(国宝)が出土しています。
大香炉はこのあと国立博物館で実物を見ましたが、ものすごく精緻で百済の工芸技術の高さが分かります。
羅城の外に王陵を築いたのに、そばに寺院を造るというのが百済の風習だったんでしょうか。
壁画古墳

王陵園には、3群16基の古墳があります。

威徳王陵は、陵山里山の斜面にあり、蓮華飛雲文と四神図の壁画がありましたが、退色してしまったため、今は模型が展示されています。


義慈王と隆の墓
横の道に「義慈王壇」の看板を見つけ駆け上がります。
ここで、ざっくり義慈王と日本の話。
百済最後の王の義慈王は、幼い頃は「海東の曽子」と呼ばれるほど親孝行で(曽子は、孔子の弟子で孝を重んじた人物)で、義理堅く慈愛に満ちた人物だったらしいです。
641年に即位し、外交を活発に行い、新羅との全面戦争に臨みます。
倭に王子の豊璋を人質として送ったり、高句麗と同盟を結んだりして、新羅に圧力をかけるのですが、
この後、新羅が唐と結んでから、形勢逆転、防戦一方で、
義慈王は贅沢をはじめ、忠臣を投獄したり、弟や貴族を粛清し、だんだん国力が衰えて、660年唐・新羅連合軍の攻撃を受けて降伏。
義慈王と太子隆、王族たちは唐に連れ去られ、唐で病死しています。
その後、残存勢力が倭にいた豊璋を担いで、百済再興のための戦いが起こり、倭も援軍を送りますが、663年に、唐・新羅連合軍に白村江で大敗します。
有名な白村江の戦いです。
これで、百済は完全に滅亡し、韓半島進出をもくろんでいた倭国の思惑ははずれ、それどころか唐が攻めてくるのではと恐れ、山城や水城など防衛施設を造り、防人に守らせるはめになります。
「はじめはいい王だったけど、途中から堕落した無能な王」というような描かれ方が多いですが、負けた国は悪く描かれがちなので、本当のところはどうでしょう?

太子隆の墓の右奥には、義慈王の墓がありました。

神路?が長くなってます。

歴史用語は漢字が書いてあったりして、読もうと思えば読めるはずなんだけど、TOPIK終わったばかりで長文に疲れたので写真を撮っただけで読まずに来ました。
威徳王の陵墓


古墳は、手前に3基、中に3基、奥のやや高いところに1基あり、王と王族、もしくは上級貴族が埋葬されていると考えられています。


東下塚1号塚は、威徳王の墓と推定されています。
聖王の長男で、高句麗と新羅との侵略に悩まされ、日本と交流の深かった王様で、日本書紀にも「余昌」の名前で登場しています。
当初は一般開放されたいたのですが、壁画が退色したため、さっき見た模型館ができました。
パンフレットには「古墳の外形はすべて円形封土墳であり、内部に羨道がついている竪穴式石室墳である」とあったけど、羨道がついているなら横穴式石室ではないのかな?
誰か教えてくださーい。
象形埴輪だけでなく、円筒のようなものもない。
まあ、日本の前方後円墳や方墳のように大きくないから、土留めの役もいらないということなのかな。
韓国にも倭人の前方後円墳があるらしいのに、埴輪についてはあんまり聞かないけど、まだ発掘途中なのかなあ。


切符売り場がありましたが、人がいなかったのでそのまま出てきてしまいました。
世界遺産なのに1,000W(約110円)、それくらい払ってくればよかったんだけど、人がいなかったもので・・・

このすぐ前にバス停があります。
NAVERで、701番バス9:30があると調べていたので、説明板を読んだり、古墳を眺めたりする以外の移動はすべて走ってきたのに、バスが来ない。
でも、地元のおばさまがバス停に来たので、多分バスは来るのだろうと思って見ていたら、9:40に702番バスが来ました。
町外れなのでタクシーも来ないし、バスが来なかったらどうしようと思っていたのでほっとしました。
扶余編、続きます!