今回の巡礼旅は3泊4日。後半は友人と合流して初のレンタカー巡礼。
前半は、これまで行きそびれていた京都大阪姫路を巡っていきます。
11番札所醍醐寺
この日も朝5時には電車に乗り、東京発のぞみ1号(始発)に乗って京都入りです。
醍醐寺には京都から湖西線で山科まで行き、東西線に乗換え、醍醐駅下車15分くらいです。静かな朝の住宅街の中を通って行きます。
ご本尊 准胝観世音菩薩(御開帳5月15-21日)
逆縁も もらさで救う 願なれば 准胝堂はたのもしきかな
弘法大師の孫弟子の理源大師が醍醐の深山で霊感を得て等身大の准胝観世音菩薩を刻み、安置したことが寺の起こりとされています。醍醐の名の由来は、地主神の横尾明神が湧き水を「あぁ、醍醐味かな」と行ったことから。この醍醐水は上醍醐にあります。
豊臣秀吉が「醍醐の花見」をしたことで知られる桜の名所です。
秋の紅葉もきれいでした。
本当は11番札所上醍醐准胝堂は、一般的な醍醐寺の山の上に奥の院のようにあり片道3km60分以上登らないといけないのでしたが、
平成20年に雷で焼失してしまい、現在は醍醐寺の観音堂で納経印を頂けます。
迷いました。
本来の観音堂はないとはいえ、他にも上醍醐には国宝の薬師堂、清瀧宮拝殿、重文の如意輪堂、開山堂があるので、行かなくてはいけないのではないかと。
でも、この日は他にも多く周る予定があったので、納経印もいただいて、紅葉を堪能し、三宝院庭園を楽しんで次の三室戸寺に行きました。
子どもの頃は分からなかったけど、年をとって日本式庭苑が好きになりました。
10番三室戸寺
醍醐寺からは東西線と京阪線を乗り継いで三室戸駅下車、駅から15分くらい歩きます。
宇治は観光地なので人が多いです。
夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波
宝亀元(770)年、光仁天皇が宇治の離宮に行幸中に、宇治川支流で金色の千手観世音菩薩を発見し、御室の一部を仏像の現れた土地に移して、この観音像を本尊として安置したのが始まり。御室戸寺としていたが、光仁、花山、白河の三帝の離宮になったことからのちに三室戸寺になった。信長の焼き打ちにあうなどたびたび焼失し、現在の本堂は文化2(1805)年の再建。
牛の口のなかにある玉を触るといいらしいです。
こちらのお寺はサービス精神が旺盛で、いろいろなご利益ものが境内にありました。
説明のところを写真に撮るのを忘れてしまった・・・
髭、耳たぶ、蛇のようなしっぽ、それぞれ触るとご利益があったのですが、今となっては分からず。
宇治上神社
宇治観光と言えば平等院ですが、平等院は何度か行ったことがあるので今回は割愛。
これまで来たことがなかった宇治上神社を参拝します。
世界遺産だから来たかったということも有りますが、ここ数年の古代史マイブームで、菟道稚郎子皇子がすごく気になっていたのです。
宇治上神社の御祭神になっていますね。
宇治稚郎子皇子についての私見
菟道稚郎子皇子というのは、応神天皇の皇子の一人で、天皇に愛され皇太子にされるも、応神天皇の死後、異母兄の大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)と天皇位を譲り合い自殺した悲劇の皇子です。(日本書紀の記述。古事記ではたんに夭折)
でも、私はこれは事実ではなくて、仁徳天皇の謀殺ではないかと勝手に思っています。
大鷦鷯尊は母親が仲津姫命で王女ですが、菟道稚郎子皇子は母親が宮主宅媛ということで王女ではない。
菟道稚郎皇子は王仁を師匠として文字を習ったり、高句麗の使節とも会ってる。
兄としては面白くないかも。
それなのに、大鷦鷯尊は父親の応神天皇の前では「年長の子と年少の子では年少がかわいい」発言をして、応神天皇に信頼されています。
実は大鷦鷯尊の上にもう一人兄がいて、そちらの大山守尊は「年長の子がかわいい」と答えて、父親の不興を買っているのです。
大鷦鷯尊はかなり策士?感じ悪いですよねー。
父天皇の死後、大山守尊に謀叛を起こさせ弟皇子に殺させて、さらに弟皇子を殺して自ら王位についたのではないかなーと思っています。
即位までにそんないきさつがあったので、仁徳天皇は聖帝といわれるような立派な政治をしたのではと深読みしています。
あくまでも私見です。
菟道稚郎皇子の墓も行きました
仁徳天皇は自分の陵墓と同じ規模の墓を作らせたというだけあって大きいです。時間がなくてぐるりと回ることはできなかったけど、京阪の中から見ていました。
宇治墓のそばに倍塚として小塚があったのをいつの頃からか浮舟宮と呼ぶようになっていたとか。
太閤堤跡
宇治墓に行こうとしたら、秀吉が修復したという太閤堤の遺構がありました。