しゃおれんの旅日記

インフラ等は記事を書いた時点のものです。現在の状況はご確認お願いします。

鹽竈神社と多賀城

石巻観光の後は多賀城に行き、18時台の新幹線で仙台から上野に帰る予定でした。

多賀城跡だけでは時間が余るかもしれないと、多賀城の鬼門を守る陸奥国一之宮の鹽竈神社にお参りしてから多賀城へ行こうと考えました。

 

鹽竈神社本塩釜駅から

後から地図を見たら塩釜駅からも歩けました。

JR仙石船本塩釜駅から表坂(202段の石段)まで約15分くらい。

道沿いに和歌が刻まれたオブジェもありましたが、読まずに通り過ぎました。

表参道は202段の石段がそびえます

表参道の階段をひたすら上るとこの日は早めの七五三の御祈祷を受けに来た親子連れで一杯でした。

 



鹽竈神社

陸奥国一之宮として、平安時代からすでに崇敬を集めていました。

立派な門

祭祀料として正税壱万束を受けていたようですが(他に祭祀料を受けていたのは、三島社と月山社のみ)、「延喜式」には載っておらず式外社だったという謎があります。

さらには、主祭神についてははっきりせず、江戸時代に伊達家4代綱村公が学者たちに研究させて、別宮に主祭神たる塩土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神をお祀りするように定めたとか。この三本殿二拝殿という形はとても珍しいそうです。

歴代藩主の伊達家が大神主となり、宮司はいないそうで、禰宜家が祭祀を行っていました。

別宮に主祭神塩土老翁神

右宮と左宮とあります

塩釜神社の御由緒を読んでいると、なかなか暢気な感じが伝わってきます。

平安時代から地元では崇敬されていたのに、祀られている神様がよく分からないって(笑)

 

 

志波彦神社

鹽竈神社のお隣にある

志波彦大神をお祀りし、「延喜式」の中でも「名取大社」という格別の崇敬を受けていた神社です。

この神社の社殿は全額国費で建てられた最後の社殿だそうです。

志波彦神社



志波彦大神について、神社のサイトの御由緒から要約します。

志波とは、「物のシワ」=端を表す言葉で、大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、その地方で信仰されていた国つ神(土着神)を志波彦大神、志波姫神と呼んだと考えられる。

 

鹽竈神社のサイトは分かりやすく丁寧で良いです。しかも、写真が重くなくて見やすい!

 

御釜神社

御釜神社

鹽竈神社から本塩釜駅へ戻る途中にあります。鹽竈神社と同じ塩土老翁神主祭神とし、かつては製塩が行われていた場所でした。

塩釜の地名の由来となった神の釜があります。

こちらは初穂料100円を支払うとこの中にある四つの釜を見ることができました。(写真撮影は不可)

釜の水は黄土色をしていました

内部に張っている水はあふれることもなければ、干上がることもなく、またこの地の有事の際には水の色が変わると伝えられています。

畏れ多い気持ちで見る。

御釜の奥の建物に御簾がかかっているので「あれは何ですか」と職員さんに聞いたのですが「私はよくわかりません」と言っていました。

御釜の神様が祀られているのかしら?

多賀城散策はレンタサイクルで

松島は以前来たことがあるので今回は割愛。鹽竈神社の次は多賀城へ行きます。

JR東北本線国府多賀城駅から歩くか、JR仙石線多賀城駅からレンタサイクルが便利です。本塩釜から移動したので私は多賀城駅から観光しました。

多賀城駅からはアップダウンが多くて、普通のママチャリだと結構大変でした。

1時間150円、ヘルメット着用は初めて

日本百名城はほとんどが戦国時代の城ですが、こちらは異質の古代の城

でも、古代史ヲタクの私はむしろこちらのほうが興味があります。

1300年前の政治と軍事の拠点であり、歌枕の地でもあります。

平城宮跡太宰府跡とともに日本三大史跡です。

東北歴史博物館

ものすごく立派な建物

時間がないので常設展だけ見学。

宮城県からも遮光器土偶が出土していたなんて!青森だけかと思ってた

多賀城碑(壺碑)

多賀城 去京一千五百里」で始まる多賀城

天平宝字6(762)年に建立、京などからの距離や多賀城創建の歴史など141文字が刻まれています。

松尾芭蕉はこの碑に感動して「奥の細道」に書き記しています。

「壷碑」という歌枕として有名だとか。

東北歴史博物館にあったレプリカ

こちらのほうが照明もあたっていて読みやすかったです。

多賀城

国府多賀城駅のそばの線路を超えて行きます。

約900m四方の多賀城跡の中央に約100m四方の政庁跡がありました。

作貫地区役所跡

神亀元(724)年、大野東人陸奥国を統治するために設置した役所で、国府(行政組織)、鎮守府(軍事)が置かれました。

 

増築されたり、伊治公砦麻呂による焼き打ち、大震災後など数回再建されています。

現地では、最も荘厳だった第二期(伊治公砦麻呂の乱前)を表示しているとのこと。

政庁復元模型

政庁南門跡

歴史博物館で模型を見たときに翼廊が下がっていて模型の作成ミスかと思いましたが、現地の復元でも翼廊は下がっていました。

政庁正殿跡

礎石式の四面庇付建物で、南側は石敷きの広場でした。礎石の一部は当時の実物とあったので、全部を踏んでみてどれが本物か探ってみました(よくわからず)。

 

100m四方の敷地はなかなか広いですが、記念と思い縦横無尽に歩き回ってきました。

 

多賀城廃寺跡

政庁の南東1kmにある多賀城の附属寺院として建立されたもの。

伽藍配置は太宰府の附属寺院、観世音寺と共通しています。

多賀城廃寺跡(現在は公園)

東に塔

東に塔、西に東をむいた金堂、北に講堂があります。

北に講堂


歌枕「沖の石」

沖の石(沖の井)

ざっくりと多賀城を見学して、駅へもどり自転車を返してから歩いて多賀城駅の南側にある万葉の歌枕を探します。

住宅街の中にありますが、池とその中に大きな石がありました。

「わが袖は 汐干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」二条院讃岐の歌でしか知りませんが、見たら「おぉー」と思いました。

国名勝・日本遺産に登録されています。

 

歌枕「末の松山」

坂道の途中にある末の松山

清原元輔「契りきなかたみにに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは」の歌が好きだったので、多賀城に来たならぜひとも来たかった場所。

沖の石から徒歩3分くらいのところにあります。

現地には清原元輔の元歌の碑がありました。

古今集の読み人知らずの東歌です

「君をおきてあだし心を我が持たば末の松山波も越えなむ」

絶対に浮気しませんと誓う歌です。おそらく、東日本大震災のときもここまでは絶対に津波は来ないと思われる高台にありました。

ここに誓ってくれたならかなり信じられるということでしょう。

末の松山と書いてないと分からないけど

こちらも国名勝・日本遺産に登録されています。