宮跡巡り旅の目的の一つに継体天皇の4つの宮の場所を訪れるがありました。
継体天皇についての個人的興味
数年前に福井に旅行した時に継体天皇の像を見て「もう少しなんとかならなかったのかしら」と思って以来気になっている天皇。
継体天皇以後はほぼ現在の皇室に繋がるといって過言ではない。
でも、武烈天皇によって応神王統が途絶え、応神天皇五世孫が福井から招かれて即位するなんて日本書紀の記述をそのまま信じていいものかしら。万世一系というけれどちょっと微妙な感じです。
個人的には、越の大豪族がヤマトの豪族(大伴や物部)と組んでヤマトを乗っ取ったのではと思っています。
ヤマトの磐余玉穂宮が即位後20年経ってからなので、通説では反対勢力がヤマトにいれなかったためと言われていますが、即位した当初の樟葉宮は交通の要衝でもあるので「あえてヤマトに入らず交易・防御に適した樟葉に拠点を設けた」説を見つけました。
どうなのかしら。これは一つどんなところか樟葉宮の場所を行ってみなくては・・・
最初の宮樟葉宮(507-512)
507年河内の樟葉で即位しました。
現在の場所は、枚方市樟葉丘にある交野天神社の中にあります。
こちらの交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)は、桓武天皇が787年に長岡京の南の地を選んで郊祀壇を設けて父光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀ったのが起源とされています。中国の皇帝が冬至の日に天壇で天帝を祀る例にならっとされています。
天神さまというと菅原道真かと思っていましたが違うのですね。
拝殿の右に森に入るような道があり、道なりに進むと貴船神社の本殿があります。
その本殿のあたりが樟葉宮伝承地とされています。
村の産土神で穂掛神社とも呼ばれた貴船神社は、現在の交野天神社社殿のあたりにあったものを樟葉宮跡とされた丘に移したといわれてるようです(教育委員会の看板から)
**感想**
ここに来る前に石清水八幡宮を参拝してきたのですが、京都からくると桂川、宇治川、淀川と大きな川があって水利の便は良さそう。(北側は防御にも良さそう)
石清水八幡宮は普通に山で、ここに見張り台でも作っておけば攻められても早期発見ができそうです。
樟葉丘自体は山ではないですが、丘陵地帯にあるように思いました。
お隣の八幡市のほうは水田もあるので、低いのかなと。
もともと即位の時に河内馬飼首荒籠が密使として活躍したというから、北河内の馬飼部と親しい関係にあって、馬と武器を手に入れるためにはこの場所が重要と思っていたように思います。
第二の都・筒城宮(511-518)
樟葉宮はなかなかいい場所にあったと素人ながら思いましたが、わずか5年で筒城宮に遷宮します。
筒城宮は現在の京田辺市。筒城宮伝承地の碑は同志社大学内にあると聞いて行ってきました。
同志社前駅からひたすら長い登坂を進み、キャンパスの入口で挨拶をします。(先達のブログなどを見ると入口の守衛さんに挨拶をすれば入場可能ということだったので)
すると、コロナ禍がやっと落ち着いたばかりで部外者は入校不可とのことでした。
ショック・・・千葉県からわざわざ来たのに・・・
駅からの途中に案内図があったので、せめて伝承地の碑があることだけは確認して帰りました。
実際の所、必ずしもそこというわけではないようですが京田辺市の郷土史会が筒城宮顕揚会を結成して、当時の明治神宮の宮司さんに「筒城宮址」碑を揮毫してもらったそうです。あわせて会長の筒城宮を称える歌碑も残っているそうです(先達のブログにあった京田辺市の教育委員会の看板より抜粋)。
学研都市線という極めて面倒くさい線で行ったのに(樟葉宮からは樟葉駅前からバスで松井山手駅まで行き、そこから学研都市線に乗りました)・・・・
マスクもしてたし、私は小さいので案外紛れ込めたかもしれないのに・・・・
と非常に残念なことに。
**感想**
この地にあったのか微妙なところではありますが、案内図の地名に多々羅とあるのを見ると、製鉄業が行われていたと見受けられます。
ということは、馬と鉄があれば最強部隊が作れるのでは?と思ったりして。
鉄製農具があれば生産量も増えそうだし。
そして、少しだけヤマトに近付きましたね。
第三の都・弟国宮(518-526)
現在の長岡京市にある乙訓寺の付近だと言われています。
弟国宮伝承地の碑はありません。先達も乙訓寺の写真を載せているばかりです。
推古天皇の勅願により聖徳太子が開き、桓武天皇の弟の早良親王が幽閉されたり、空海が別当となるなど、長きにわたり繁栄していた大寺のようです。
こちらのご本尊は秘仏で見ることはできないのですが由来がすごいです。
弘法大師が八幡大神を彫っていると八幡大神が現れて「手伝ってやる」と言って、大師が首から上を大神が首から下を別々に彫り、出来上がって組み合わせたら見事に一つの像になったというのです。寄木造りとはまた違うのかしら?
**感想**
長岡京のときに思いましたが、この場所は川もあり水運に便利です。平野も広いし。
ヤマトがそれまでの王権の中心地でしたが、継体天皇はそれに拘らずこのまま難波津に出やすい弟国がいいと思っていたのかもしれません。
最後の宮・磐余玉穂宮(526-531)
即位後20年たって桜井市の磐余の池のほとりに宮を移しました。
通説では20年たってやっとヤマト入りできたということになっていますが、そもそも即位したときに57歳、生い先短いのに無理にヤマトに宮を作ろうとしたかしら。どうも継体天皇のイメージって名より実を取るタイプ、歴代の王権の宮があったヤマトに宮を作るよりも交易や製鉄業・馬飼に便利なほうが良くてあえての宮作りだったように思います。
でも、それなら最後までヤマトの外にいればいいのに、英雄タイプの継体天皇と違って後継ぎの息子たちはヤマト以外にいたら、ヤマトの豪族たちに見向きもされないんじゃないかって心配になって武力と経済力をバックにヤマトに乗り込んだのではなんて。
息子たちのためにヤマトに宮を移したと個人的な妄想です。
磐余の池もはっきりと所在地が分かっていません。それが分かると磐余の池のほとりにあったと考えられる玉穂宮の位置も決まると思うのですが。
桜井市の観光案内図に宮の伝承地が載っていましたが玉穂宮は不明でした。
ですが、玉穂宮以外の「磐余」とつく宮は一応探してみました。
第17代履中天皇の磐余稚桜宮と第22代清寧天皇の磐余甕栗宮は看板を桜井市が伝承地を設定しています。
桜井市の宮跡巡りは一日かけてレンタサイクルで40km以上移動しながら探したのでまた別記事であげますね。
**感想**
交易や産業の基盤ができて、もう攻撃される心配がなかったなら、歴代王権のあったヤマト盆地に移ったのも分かるような気がします。広々としたのどかなところでした。
が、結構新しく宅地が造成されているところもあり、吉備池と思われるところも吉備の春日神社からなら行けますが、南側の方からは新しい住宅が立ち並んでいて行けません。Googleマップで色々探していたのに迷ってしまったこともあり、更新が追い付いていないようです。
4つの宮跡と思われる場所を訪ねて、どこもそれなりに広く川があるなど立地の利点が感じられました。(あくまでも素人の考えですが)
我が家も昨年家を建てるときに立地ってすごく重要でしたもん。
関東に住んでいて、地名を聞いてもどんなところかよく分かっていなかったのでやっぱり実地検分って大事だなあと思いました。
宮跡探して何になると言われてしまえばそれまでですが、有名な社寺の見学だけでなくこうしたテーマで旅行するのも楽しかったです。