しゃおれんの旅日記

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宮跡巡り旅①長岡京

古来日本の都となったところは数多いけれど、案外踏破できるのではないかと。

現在の皇居のある東京出身だし、京都には何度も旅行しているし、飛鳥板葺宮・浄御原宮・難波京等々も行ったことはあります。

伝承地として分かっているところで行けるところを巡ってみました。

こんなマニアな思いつきにつき合わせるのは申し訳ないので今回の旅行も一人旅です。

体力のありったけを投入して観光してきましたよ。

ざっくり長岡京の説明

784年に桓武天皇によって、平城京から長岡の地に都が移されました。

長岡京長岡市と現在の向日市大山崎街の一部にまたがり、大きさは東西4.3km、南北5.3kmで推定5万人が住んでいたと考えられます。

遷都の理由としてあげられるのは、「仏教勢力が強い平城京から離れるため」「天武系から天智系へ王統が変わったことを示すため」「平城京よりも水運が良い場所のため」「母親が渡来系氏族のため渡来氏族の多い山城への移動を希望したため」などがあります。

しかし、側近藤原種継の暗殺がおこり、関わったとされる弟の早良親王流罪にしたことから、早良親王は抗議のため絶食して憤死します。

その後、桓武天皇の后や皇太子、母親などが急死したり、疫病が流行り、早良親王の祟りを恐れ、その後水害も起きたため、長岡京はわずか10年で放棄され、平安京に都は移りました。

わずか10年で放棄された長岡京は、未完成の都とも、存在自体が謎の「幻の都」とも言われていましたが、戦後地元の歴史地理学者中山修一先生が発掘調査を始め、朝堂院南門を発見し、その後発掘調査が進むにつれてかなり完成していたことも分かりました。

現在は、出土品は向日市資料館に展示され、長岡宮(現在の皇居にあたる内裏や国会にあたる大極殿など)を史跡公園として整備しています。

長岡宮自体も東西1.1km、南北1.6kmにわたるほど大きなものでした。

今回の行程

今回は、JR長岡京駅から長岡天満宮を参拝し、継体天皇の宮跡の乙訓を探してから、長岡京史跡を訪ねました。

そして、今回導入したアプリ「ar長岡」が面白かったのであわせてご紹介しますね。

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GPSウォッチの記録です

最後、向日神社の後でGPSが乱れたのかゴールまで一直線になっていますが、途中迷いながらもこんなルートで見学しました。

大極殿公園

 

初めに訪れたのが、大極殿があった場所です。

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長岡宮跡の碑あり

道路で南北に分かれていて、南に大極殿天皇が政治を行う場所)、北側に小安殿(天皇大極殿に出向く控えの場)があります。

右奥に見える赤い棒は「宝幢」といって、元旦のお祝いの儀式のときに旗を建てるための台座です。

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史跡公園の説明

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大極殿跡の看板

看板や説明版や碑などたくさんありました。

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現在の地図の上に建て物を配置するとこんな感じ

大極殿公園は、上の四角の中の青い建物です。

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礎石の跡

礎石の跡を見ると大きな建物だったとわかります。

ここで、アプリを起動します。「ar長岡」

このアプリは無料でダウンロードできて、史跡の場所で起動するとVRやARで見たり、説明を読んだり、写真を撮ったりゲームもできるというものです。

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大極殿の中の高御座が現れます

実際の場所と合成もできます。

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大極殿

ただ、やり方が悪いのか縮尺が合わなくて、建物がすごく大きくなってしまったり・・・

そして、ここには人物も現れます。

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桓武天皇現る

これもやり方が悪いのか高御座のところではなく、なぜか庭のところをぶんぶん動いていました。天皇皇后両陛下の行幸記念碑と一緒なら子孫ということでいいかもと思い撮影。

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桓武天皇ゆかりの4人

左上から藤原種継坂上田村麻呂桓武天皇百済王明信です。大極殿公園では四人が合成されたバージョンが見られましたが、他の場所では別々になっています。

(ちなみに

藤原種継長岡京遷都の責任者、桓武天皇の側近

坂上田村麻呂征夷大将軍桓武天皇に命じられ東北の蝦夷討伐に活躍。

百済王明信藤原継縄の妻でありながら、女官として桓武天皇に仕え、最も寵愛を受けていたとも言われる女性。)

この4人なのねーと興味深く思う。

 

内裏公園

次は内裏跡に向かいました。

ちょっとした遊具のある公園で大極殿公園ほどには礎石の跡などはありません。

大極殿から内裏ってけっこう離れているのだなというのが感想です。長岡京では政治の場と生活の場はしっかり分けられていたということでしょうか。

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ちょっとした遊具と花壇のある小さな公園

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在りし日の内裏の塀

約160m四方の塀の北西角部分を保存し復原したものです。

 

築地回廊跡

お次は歩いて築地回廊跡へ行きました。

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この土の盛り上がりが築地

幅2.1m、推定の高さ4.5mの瓦ぶきの土塀跡です。

朝堂院公園

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朝堂院西第四堂跡・南門跡・翔鸞楼跡

ここには、事務所がありスタッフの方がいてお話を聞いたり、地図をもらったりしました。

私がアプリを入れたことを言うと、「夕方になると怨霊がでるらしいよ」などと教えてくれました。VR用のメガネもくれました。とっても親切で色々聞きましたよ。

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朝堂院西第四堂跡

天気が悪いのですが、AR長岡で見ると晴天です。

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奥に鹿もいます

人物カメラで探すとここは馬に乗った坂上田村麻呂が縦横無尽に走り回っていました。

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手前にいるのは百済王明信、奥に坂上田村麻呂、さらに奥に藤原種継

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走りつかれて休むことも

こういったアプリを使うと子どもとか興味を持つかもしれないですね。いい年したおばちゃんも「あ、坂上田村麻呂だ!撮らなきゃ」と懸命にスマホ片手にウロウロしてしまったし。

 

向日神社

こちらのスタッフの方に、ここから歩いて5分ほどの高台にある向日神社まで行くと、この長岡の街が見下ろせると聞いて行ってきました。

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参道の両側には小学校あり

向日神社奈良時代に創建された由緒ある神社で本殿は重文に指定されています。中世には一揆の集結地になったとか。もとは南向きだった本殿が1831(天保2)~1842(天保13)年に東向きに建て替えられました。

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本殿

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天気が今一つで見晴らしのほうは・・・

長岡京の感想

この日は朝夜行バスで京都につき、そのまま京都駅から長岡に来ました。

京都と大阪の間で便利な場所ですよね。住宅が多い理由も納得です。

 

難波から淀川・桂川で物資を運べることができて、広い丘陵地帯にあるという大きな都市をつくることに適した地と習っていましたが、実際に歩いてみると確かにそうだなあと。

早良親王の事件がなければ長岡がずっと都となっていたかもしれません。

微妙なアップダウンはありますが、全体として平らな土地で、大都市向き。

古墳も多くあり、銅鐸の鋳型が発見された弥生時代の邑もあったりと古代からこの地は人が住みやすい場所だったと実感しました。

長岡は勝竜寺城があり明智光秀細川ガラシャともゆかりがあるのですが今回は割愛しました。