しゃおれんの旅日記

インフラ等は記事を書いた時点のものです。現在の状況はご確認お願いします。

吉見町観光(吉見百穴・岩室観音堂・松山城跡)に行ってきました

日本古代史にハマっていますが、残念ながら近所に古代史関連史跡はあまりありません。

前から気になっていた埼玉吉見町の吉見百穴に日帰り旅行してきました。

「よしみひゃっけつ」ではなく「よしみひゃくあな」と読むそうです。

 

行き方

JR「鴻巣駅西口」から川越バスで「東松山駅東口」行に乗り、「百穴入口」バス停下車、もしくは「東松山駅東口」から「免許センター」行で「百穴入口」バス停下車歩3分くらいです。

私は鴻巣駅からバスに乗りました。

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雛人形祭も行われていました(終了)

西口のバス停はロータリーよりももっと外の大通りに向かって進んだところにあるので注意です。私は迷ってバスを見て追いかけてバス停に気が付きました。

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このバス停です(車内から撮影)

 

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この丘は武蔵松山城

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市野川を渡っていると百穴が見えます

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岩室観音堂(後で参拝)

岩窟ホテル

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岩窟ホテル(現在封鎖)

この「岩窟ホテル」は明治時代に一人の農夫の方が酒蔵にするために掘り始めたそうで、「岩窟掘ってる」から「岩窟ホテル」と呼ばれるようになり、一時期は百穴と同じくらい盛況な観光地だったそうです。

人力で掘っているので工事はなかなか進まず、もともと三代で完成するくらいの長久な構想だったそうですが、戦前には軍需工場に転用する計画があったり、戦後に台風で損傷が激しくなったので現在は封鎖されています。

 

吉見百穴

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吉見百穴(大人入場料300円)

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本当に穴がたくさんあります

吉見百穴古墳時代の後期から終末期(6世紀末から7世紀後半)に造られた横穴墓で、明治20年に発掘調査が始まり、「住居か墳墓か」の議論を経て(当初はコロボックルの住居説も出た)、研究の成果墳墓とわかり、大正12年に国の史跡に指定されています。

太平洋戦争末期には地下軍需工場が建設され、横穴もいくつか壊され現在確認できる横穴墓は219基です。(パンフレットより抜粋)

 

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右手奥には登れないようになっていました

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中央通路を登ります

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玄室内部

玄室は案外狭くて(当時の人は小柄だから当然ですが)、ベッドのような棺座というものがあります。なかには家族なのか複数の遺体を追葬したものもあったそうです。

 

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通路を登りきると絶景!

富士山や武甲山など山々がきれいに見えました。

中央通路を登り切ったところには建物があり、また小さな広場があります。

この建物の前で、無人ネギ販売があったのですが「撮影ご遠慮ください」とあったので撮影せず。

 

出土品展示館は休館でした。(コロナ禍のためと思っていたけど、平日だったからかな?)

耳環や勾玉、太刀、管玉、高坏、平瓶などいろいろな出土品が残されていますが、パンフレットに「伝」吉見百穴出土遺物とありました。

 

古墳時代には、大王や豪族たちは巨大な古墳を作ることで権威を示していましたが、大化の改新後は仏教の影響もあり、権威は古墳よりも寺院を作ることで示すようになります。

薄葬令も出され、古墳作りも禁止されるようになります。

この百穴は「豪族」や「渡来人」と言った特殊な集団の墓だったのではと考えられています。

勾玉造体験などもできるようですが、コロナ禍もありますので、事前に調べてくださいね。

 

ヒカリゴケ

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天然記念物「ヒカリゴケ」

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???

どれがヒカリゴケなのかよく分かりません。

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乾燥している時期はよく見えない?

地下軍需工場

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現在は修復中のため閉鎖

昭和19年から20年にかけて、吉見百穴の地下に軍需工場を作る計画がありました。

武蔵野市中島飛行機工場を移転する計画があったのに、空襲で被災し生産能力が10分の1まで落ち込んだので、さいたま市中島飛行機工場の移転が急務となって計画されたそうです。

私が行った時は修復のため閉鎖中で見学ができず、事務所でガイダンス動画を見ることができました。

 

工事は「吉松工事」(吉見と松山を結ぶ意味?)と呼ばれ、湾曲していた市野川をまっすぐに直し、四か所の工区(百穴地下、百穴北側、松山城下、岩粉山近辺)で、3000から3500人の朝鮮人労働者が突貫工事で作業にあたったそうです。地盤が柔らかいのは百穴下だけで、松山城下は岩盤が固くて崩落が起きやすいなど、工事は難航して設計図に基づくというより工事しながら測量して進めるような状態だったそうです。

20年に7月に完成して、部品製作の機械の搬入まですんだところで終戦を迎える。

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奥は深いようですが次の機会に

この工事に参加した朝鮮人労働者は昭和51年8月22日に最後の帰国者が帰ることになり、その時に園内に日朝平和友好親善のためムクゲの記念樹を植えました。

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右が北朝鮮からの白、左は日本産の赤色

事務所の方に聞いたら、「どちらかというと白いほうがきれい」とのこと。

 

岩室観音堂

吉見百穴の向かいに岩室観音堂があります。

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岩村観音堂

 

松山城の岩場を穿って観音像を祀ったので岩室観音堂といいます。平安時代の建立ですうが、戦国時代の松山城攻防戦で焼失してしまいました。

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お堂の2階にご本尊の観音像があるそうですが・・・

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2階から吉見百穴が見えます

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1階には石仏が88体あります

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あわせて88体

これらをお参りすると四国八十八か所めぐりと同じ功徳を得られるそうです。

 

お堂を抜けると松山城跡なのですが、その前に胎内くぐり。

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鎖場をほんの数メートル登ると

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ハート型の胎内くぐり

この後この胎内くぐりの右手の道を登って松山城跡に行こうと思っていたのですが、立ち入り禁止になっていたため、表通りから登ることにしました。

 

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松山城

こちらの武蔵松山城は、かつては関東管領上杉氏の勢力下にあったが、後北条氏が上杉氏を追い出し勢力を伸ばすと、上杉憲政から上杉姓と管領職と譲られた上杉謙信がたびたび関東に進出し、竹田信玄や北条氏康と合戦を繰り広げたそうです。(吉見町HPより)

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丘の地形を生かした山(丘)城

写真を見ても分かるように堀が多いです。配下の兵力が少ないので堀を多くすることと、背後の市野川で守りを固めていたようです。

こちら民有地なので、整備はされていません。良識ある見学を、の看板あり。

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軽い山登り

整備されていないのでスニーカーのほうが良いと思います。私はバス停に近い方から本曲輪までの最短距離を登りました。

ほんの5分ほどで本曲輪到着です。

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本曲輪は意外と広いです

後北条氏配下の上田氏の城であった時代が長いものの(後北条氏、上杉氏の支配下もあった)、交通の要衝でもあり城主はよく変わったようです。最後は小田原攻めの際に上杉・前田軍に攻められ落城しました。

 

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東松山駅駅舎がおしゃれ

帰りは「百穴入口」バス停から東松山駅へ。バスなら10分程度ですが、徒歩30分とありました。