春日山神社
この階段を登ると春日山神社なのですが、車で謙信公銅像まで行けばそこから階段無しでも普通に神社に行けるので、車で、かつ階段が嫌な人はそちらからでもOKです。
階段を登りきると社殿があります。
春日山神社は、謙信公を慕う旧高田藩士の小川澄晴(小川未明の父)が浄財を募り明治年に創建した神社です。
米沢の上杉神社から分霊され、謙信公を祭神に祀っています。
特に説明文はなかったのですが、調べてみたらこの大砲はロシアからの戦利品だそうです。忠魂碑の文字は田中義一によるものとか。
謙信公銅像
春日山神社の記念館は省略して(謙信公の遺品や小川未明の資料などがあるようです)、そのまま1分足らずで謙信公の銅像に到着です。
駐車場や売店などがあり、観光客が写真を撮っていました。
ここから春日山城に行くべきか、春日山神社から行くべきか迷っていると、ボランティアガイドの方が「このまま登って行って三の丸から見て、千貫門まで戻ってくればいいよー、早い人で1時間くらいだよ」と言うのでそのまま行くことに。
三の丸、二の丸を経て本丸に到達した後は、休憩所、毘沙門堂を通って千貫門に戻てくるルートです。
いざ登城
登山も趣味の私にとっては山城はほんのハイキング。
どんどん登ります。
三の丸には米蔵跡と上杉三郎館跡があります。
大河ドラマ「天地人」を見ていたので、上杉三郎というと玉山鉄二さんの顔しか思い浮かびません。美男子だったという三郎景虎のイメージ通りですよね。
(あのドラマは武骨者と言われる景勝が北村一輝さん、智将謀将の兼続が妻夫木聡さんとか若干違和感ありのキャストでしたが、史実と違うところありつつも面白かったです)
こことは別に本丸跡もあります。
山城の春日山城には天守閣はなかったので、おそらく本丸や天守閣(天守台の誤り?)から四方の様子を見張っていたと思われます。
この井戸郭のところに10月に熊の目撃情報ありの看板あり。怖ーい。
「御館の乱」で景虎を破り、謙信の後を継いで秀吉時代に五大老までなった上杉景勝。(「北村一輝さんは違うよねぇ」と思いつつ見る)
謙信は毘沙門堂に籠っていたのは有名ですが、護摩を焚いて戦勝や息災を祈念したのが護摩堂だそうです。
お賽銭を入れるところから毘沙門天を覗き見ることができます。
この毘沙門天の尊像は、景勝のときに会津を経て米沢に移り、嘉永2(1849)年火災により被災しました。昭和3年に東京美術学校に修理を依頼し、高村光雲が修理した際に、ご分身が作られ尊像のかけ損じたのをその体内に収め昭和5年に完成し、寄進されこの指導に奉安したとのことです。
「毘」の旗も林泉寺の宝物館で見たのでいわれを読んでワクワクです。(写真は暗くてよく撮れませんでした)
「妻夫木くんは直江兼続って感じじゃあないよね」と思いつつ見る(しつこい)。
石垣がない春日山城。この空濠は道のように見えながら沢に敵を落とす仕掛けになっていたそうです。
どの絵図にも載っている門だそうですが、今は跡形もないです。
これにて春日山城は無事攻略。石垣や櫓の再現もないので、攻防を妄想するのが非常に困難でした。もっぱら「天地人」の配役に思いが飛んでしまってました。
健脚の人なら1時間、妄想していると1時間半といったところでしょうか。
上越市埋蔵文化財センター
春日山城攻略を終え、ホクホクしながら駅に向かいます。
途中、謙信公出陣御前清水がありました。とりあえず記念撮影。
春日山城には「越後上越上杉おもてなし武将隊」がいるのですが、平日のこの日は特に活動していないようでした(涙)
文化財センターに十五郎さんがいましたが、何やら受付で事務をされていたようで写真を撮って下さいと頼めないおばさん一人旅なのでした。
こちらのセンターは入場無料で、川中島の合戦を屏風や動画で説明していたり、土器の修復をされている研究員の方の様子をガラス越しに見ることができたりとなかなか興味深かったです。
ここで、乗りたい電車まであと1時間ちょっと。
私はこの日、長野から新宿までバスで帰ることにしており、春日山駅を14:32発の電車で帰ることにしていました。
これなら、春日神社や春日山城跡ものがたり館を省略しなければよかったかなと思いつつも、今更歩いて行くのもどうにも疲れる。
ということで駅までユルユル歩きつつ、途中のコンビニでパンと飲み物を買い、謙信公広場のベンチで春日山を見ながら一人妄想にふけりつつ楽しく完食。
電車の中で爆睡したことは言うまでもありません。
友人を訪ねるのがきっかけの秋旅でしたが、しっかり高田城と春日山城を満喫してきました。次回は、今回行けなかった森将軍塚古墳と松代にぜひとも。