むきばんだ史跡公園にやってきました。
「妻木晩田遺跡」を史跡公園として整備して公開しているところです。
妻木晩田遺跡は、大山の麓に発見された弥生時代の村の跡で、1700~2000年ほど前、約300年間にわたって作られた900棟以上の建物の跡が見つかるほどの長く大きく続いた村だったことがわかっています。
その規模は吉野ケ里遺跡よりも大きいとか。
倭国大乱の頃の高地性集落を思わせる丘陵の大きな遺跡。
「山東によりて国邑をなす」という魏志倭人伝を連想します。(あくまでも個人的な意見です)
ここには、出雲・伯耆の文化圏に見られる四隅突出型墳丘墓という独特な墓があるので、それを見たかったのです。
(大山登山のついでには、出雲地方は遠かったので)
今回の記事は、史跡公園のパンフレットと、「シリーズ遺跡を学ぶ111 日本海を望む「倭の国邑」妻木晩田遺跡」濱田竜彦著を参考に書いています。引用が不適切となって著者の要旨と外れてしまわないように気を付けていますが、もし間違いがあれば(さらに勉強して不足に気づいたら)修正していきたいと思います。
遺跡の名前はもともとこの遺跡のある丘陵地帯が大山町側からは妻木山(むきやま)、米子側からは「晩田山」と呼ばれていたこと、史跡公園の住所が「西伯郡大山町妻木字晩田」だとか。
それにしても「むきばんだ」は言いづらい。「むぎばんだ」か「むきぱんだ」にしてほしいーー。
全く余談ですが、史跡のゆるキャラは「むきぱんだ」らしいです。
史跡公園はとても広いので、四隅突出型墳丘墓のある洞ノ原地区だけ行くことにしました。
一番大きな四隅突出型墳丘墓(1号墓)。これまで古墳ばかり見てきたから「小さい」と思ってしまったけど、考えたら弥生時代のお墓でした。貼石があり、四隅が飛び出ていて不思議です。
その隣に四隅が飛び出ていない2号墓もあります。
『1号墓と2号墓の周囲からは、洞ノ原墳丘墓郡で最も古い特徴をもった土器が出土していること、その後、1号墓、2号墓よりも大きな墳丘墓が作られていないことから、被葬者は死後も特別な扱いを受けていたことがわかる。』
この地区には子供が埋葬されたと考えられる小さな墳丘墓もたくさんあります。
あ、これだと比較対象がなくてわからないかも・・・失敗ですね。
四隅突出型墳丘墓は出雲地方に多い形です。鳥取県西部は出雲文化圏になるのですね。
1号と2号墓の関係性は確認できないとしながらも、2号のほうが大きく日本海への眺望が開ける西側に大きな墳丘墓がないことからも2号墓がより特別な存在ではないか(始祖のような存在)とし、
2号墓の時点ではまだ四隅突出型ではないが、その次世代の1号墓の人物の時には出雲との関係が深まったのではないかとあります。
さらに進んで洞ノ原西側まで進んでみました。環濠(今は埋められています)に囲まれた地域です。
高床式の建物が復元されています。
『この環濠は防塞施設と思われていたが、ここから武器の類が発見されていない。
高床式の建物跡はあるけれど、住居の跡もないことから、この地域は環濠に囲まれた聖域だったのでは』
先ほどの墳丘墓の地域からこの環濠の地域までにいくつもの円墳がありましたが、
『古墳時代になっても墳丘墓を崩すことなく残してあるということは、古墳時代の村人は墳丘墓の被葬者を先祖として記憶していたのではないか』
環濠のあたりに鹿がいました。
こんな丘陵(ほぼ山)に住むのは、防御だけでなく、生活のための森林資源にためとも考えられています。
現代でもひょっこり鹿に会えるなら昔はもっと豊かな自然に囲まれていましたよね。
竪穴式住居は屋根の上に土を載せた土屋根住居として復元されています。
師匠(夫さん)は180cmなので、建物が大きいことがわかります。内部も広かったです。
竪穴だけを示した復元。
屋根をふく前の復元。
他に、妻木山地区(最も多くの竪穴住居跡がみつかっている地域)、妻木新山地区(弥生の森)、仙谷地区(最大の首長墓が見つかった地区)、松尾頭・松尾城地区(最初に人が住み始めた場所、祭殿跡、銅鏡の破鏡が見つかるなど祭祀の場所もある村の中心。現在は公開されていません)など、本当に広くてもっと時間をかけてレンタサイクルで周るのがいいと思います。
私たちはあまり時間がなかったので、弥生の館(体験や展示が行われている建物)を見学して帰ることにしました。
貫頭衣と壺の模型があったのでちゃっかり体験。
連休中で子供が多かったからちょっと恥ずかしかったのに写真を見たらけっこうな笑顔だった。
妻木晩田遺跡から大山まではひたすら山に向かって登っていきました。
晴れていたら、遺跡からは孝霊山や大山が見えたそうですが、霧がかかっていて姿が見えず。
この後、大山に登って大阪の義父の家に寄って今年の連休はおしまい。
登山も観光も親孝行もできて充実していたのではないかな。